あしもとで、ひとの目には見えない地面の何か粒をそれまで牧歌的についばんでいた鳩がとつぜん飛び立って、公園の木々のあいだをものすごいはやさで抜けていくのをみた。

停めていた自転車を盗られて2時間が経った。最寄りの交番で被害届を出して、さっき自分のものによく似た自転車を乗り回している何者かをみかけて、置き去りにされるまで追いかけた。追いかけるおれのすがたをその者はみとめず、逃げるようすもなく逃げ切った。それでいまはつかれて、公園にいた。知らない公園だった。緑が多くて、すずしい風が吹いていた。過ごしやすい気候になったと思う。ふしぎと清々しい気持ちもしたが、それが閾値を超えたそらぞらしさなのだというのは何となくわかっていた。事実に打ちのめされるのを、感情がたすけているのだった。  音割れの声が背後からきこえて、ふりかえると焼き芋を売る自動車が走るというよりは歩くようなはやさで道を通っていくところだった。その車に興味がわいたのはほんの一瞬だったが、そのうちに男がひとり立ち寄って、車体の芋販売部にあたるうしろがわでほほえみがちにことばを交わしているのをみかけた。やがて車の持ち主は何事か確かめにいくように運転席に引っ込み、男はその目を盗んで、やや強引に乗り上げないと取れないばしょにある焼き芋を、身をのり出してつかんだ。そしてみずからの身体にしのばせた。  それをおれはみていた。  それからまた戻ってきた焼き芋屋と笑顔でことばを交わしたのち男はその場を去った。去る、と思った。あぁ、これが泥棒だ。このようにおれの自転車は盗まれたのだ。バス停にバスが停まり、それを待っていたひとを乗せてふたたび走り出すような自然さだ。そう思っているうちに男と目が合った。するとこちらがわへ歩み寄ってきた。入り口でもない公園の内と外をへだてる柵をこえてきて、おれのすわるそばにきたのだった。  おれはそいつの顔をよくみることにした。泥棒をする人間の素養というか、特色というべきものが何かわかるかもしれず、それをいまこの場で解き明かすことができれば、きょうのようなことは二度と自分の身には降りかからないのだというように。その表情はたぶん、彼からみて自身をかなり糾弾しているように受け取られたと思う。男は盗んだ芋を夜道でみかけた猫へ向けるようなまなざしでしばらくみてから、そのうちひとつをおれに対して差し出した。 「口止め料ってことでこれ、おさめてくれませんか」 何となく、受け取らなければならない気がしておれは手をのばした。「あついですよ」と男がいう。たしかにあつかった。持ち手をときどき替えながらでないと落としそうでそこに注意を割いていると、いつの間にか男はおれの横に腰をおろしていた。男はおれよりもいくぶん年下のようにみえた。立っているときはおおきくみえたが、すわるとおなじくらいの背丈だった。くぼんだ眼に生えているまつげがながかった。ながすぎるような気もした。おれはたずねた。 「きみはいつもそういうことをしているの?」 「そういうことっていうのは?」 「盗みだよ」  男はしばらく黙って考えた。そしてやはりそう言うしかないという顔をしてこたえた。 「ごくつまらんことです、それを自分が率先的にしているとは、とてもじゃないが言い難い」  おれは意味を掴みかねてすこし考えたと思う。しかし、その何か理屈じみた言いまわしに対して本能的に反感した。何にせよ悪しき事柄にまともな理屈というものが存在しているはずはないのに、ごくまともな口調で説明をこころみる男にふしぎと気負っている。 「悪いことをしているという自覚はないのか? ひとをだましていることの後ろめたさが」 「これを説明するのはむずかしいことですが……」と男は言った。「泥棒なんていうのはやられた方は大仰に考えるけれども、やる方にしてみれば下等も下等のことなので、だからこそ日常的なんです。しょうもないこととわかってやるしょうもないこと、それ自体がほんの冗談みたいなものなんです。だからありふれている。だからいつも、被害者だけが存在している。加害者っていうのは、なんというか、いないんです。泥棒っていうのは実際のところ、存在からして無いんです」  男がふたつに割った芋から湯気がいっそうふきだして、男の顔をつかのま隠した。 「何を言ってるんだ? ぜんぜんわからない」 「だからこれは、説明がとてもむずかしいことです」  おれはそもそも男が何か説明しているようにはみえなかったし、どちらかといえばまるでヒーローインタビューをきいているような気分だった。きょうのハイライトや、今後の意気込みをきいているような。そのとき、電話が鳴った。息子の通う幼稚園からだった。 「もしもし」  息子を受けもってくれている担当の先生だった。迎えの時間になっても来ないので、電話をかけたのだという。いまや日が暮れかかっていた。ひざに置いた芋の熱を感じる。男はおれのよこで、芋を食べるのに集中している。こちらの話はきいていなかった。  おれは言った。 「実は自転車が壊れてしまって、修理に出していたんです。いまからあるいていきますので、もうすこしだけあずかっていてもらえませんか」  わかりました、と電話の声は言う。それがなぜだかとおくきこえた。スマートフォンを持つ手がかすかにふるえていることにおれは気がついた。自分はいま、はずかしかった。なぜ自転車を盗まれたことがこんなにはずかしいのだろう。うちあけられないのだろう。  電話を切ると、男は自然とまた切り出した。 「とにかく泥棒っていうのはいま、ここにいるように、どこにでもいます。そしてどこにも存在していない。泥棒はそういう存在の可能性の内側にいる。可能性そのものが泥棒を匿っていると言ってもいいかもしれません」  おれは男の言葉に耳をかたむけることにつかれはじめていて、考えとしては息子を迎えにいかなければならないというのでいっぱいだった。けれど男を無視して立ち上がろうという気にもなれなかった。ながいことあるいたり走ったりしていたし、もうすこしここにいたかった。夕方の公園はいつでも風がすずしい。すこし冷めて難なく手に持っていられるようになった芋を割って、その断面をみた。そしてうっすらと耳に残った「可能性」という言葉について考えた。  おれは男に訊ねた。 「たとえばだけど、自転車は盗んだことある?」 「自転車ですか」 「そう。自転車」 「自転車はいまのところないですね」  そこでおれは男の顔を観察した。翳りのようなものは表情のどこにもなかった。男はただ芋をほおばって笑みをこぼしていた。  泥棒は存在しない。それがどういうことだかはわからないが、言い換えればそれは、ひとは泥棒になることはできないということだ。そんなことをしては、生きていかれないということだ。  おれは言った。 「おれはきみのしたことがかならず罰せられるべきだとは思わないし、こういうものももらっているから何か言える立場でもないけれど、お願いを言ってもいいかな?」 「なんでしょうか」 「今後もしそういう機会が訪れたとしても、自転車を盗るのだけは止してくれないか?」  男はすこし考える間をつくったが、何か考えているようにはみえなかった。芋を食べ終えて満腹の、幸福な人間がそこにはいるだけだった。男は手を払いながら言った。 「わかりました。おれは今後、自転車だけは盗まんことにします。そうします」 「ありがとう」 「あと、あなたはいま、ぼくのしたことがかならず罰せられるべきとは思わない、と言いましたけれど」そして男は立ち上がって去ろうした。最後に、おれの足元から頭までをくまなく見渡した。「罰ならしっかり受けていますよ。それもまた日常的なものとして。存在しないものとして」

男が去ったあともおれは公園のベンチにすわっていた。そして男の言い残していったことを反芻した。存在しない泥棒が、存在しない罰を受けている。それはどういうふうにもイメージがつかなかった。だまされたかもしれないとそこではじめて思ったが、もう遅かった。可能性という意味で言うなら自分はもうあらゆる可能性を盗まれてしまった。腰があがらない。日が沈み、芋が冷めていく。その芋が鉄塊のように重く感じられる。  このまま息子を迎えにいかなければどうなってしまうのだろう。  たぶん、どうにもならない。最終的には妻が代わりに迎えにいってくれるはずだ。けれどそれだけで事は済むだろうか。そのとき息子はおれにどんな思いを抱くだろう? おれが自転車を盗られてこうしているように、立ち尽くすような思いに駆られるだろうか。そうなれば、おれは息子から何かを盗んだということになるのかもしれない。けれどおれはおれが何を盗んだかわからない。それは息子にだけわかる。  泥棒がいる。しかし存在していない。

風が止んだ。すこしまえに飛んでいった鳩が大勢の仲間を連れて帰ってきた。そのすべての鳩が、おれの手元にある芋を物欲しそうにみつめていた。