さっきから何かやろうとしているのだけど、やることが思いつかなかった。いろいろ思いついているような気もするが、どれも言葉にならなかった。頭が詰まっているような感覚は、きっと眠りすぎたからだった。眠りすぎると、眠りつづける。安らいでいるつもりで苦しんでいる。すこし目を離したすきにこうも倒錯していく心と、心ゆくまま無駄にした休日があった。ふとんから出たのは夕方過ぎだった。 5日間取った休みの初日はこんな感じ。こんな感じでいるのはこの日きりにしようと決めて、水を一杯飲んだが全然足りない。つめたさで胃に落ちていくのがわかって吐きそうにもなる。またすぐに横になりたかったが、スマートフォンが鳴っていた。高校の友人だった。遊びのさそいだったので、乗った。当時の連れふたりも来るらしい。自分をどこか連れ出してくれるもの、そのようなものでありさえすれば、たとえ知らない車でも乗り込んでいたと思う。そしてそいつのうちにいった。
そいつは既に結婚していて、奥さんは妊娠していた。家は坂のうえにあるリフォームした中古住宅だった。彼はもうここでこの家族と生きることに決めたのだな、と思った。ダイニングに通されて椅子にこしかけた。くつろぐなら座間になっているリビングでもいいような気がしたが、そちらは使われなかった。リビングのテーブルにはアタッシュケースが乗っていた。ご飯を食べて軽く飲んだ。むかしの話はせず、むかしのように話をした。それが終わると、みんなはながれるように酒のはいったカップだけ持ってリビングへと移動した。家主がにこにことアタッシュケースを開けた。アタッシュケースだと思っていたものは、麻雀セットだった。たちまち座間は雀卓になり、そのとき当時の思い出がよみがえってきた。これはきらいだったものだ。 麻雀自体はどちらかといえば好きなゲームなのだけれども、賭けるのがつまらなかった。あと、夜通しやるのもたまらなく苦痛だ。けれど他の連中は当然のように賭けて、夜通しやるつもりだ。賭けて、夜通しやる以外の可能性はない。頭からはずれている。麻雀に対してそもそもそういう前提で接している。その雰囲気がきらいだった。自分がとりわけよわいわけではなく、特別強いだれかがいるわけではない、強いていうなら家主のそいつが多少強いことは強いけれども、こういう一夜の麻雀で実力差は発揮されづらい。大抵の場合、その日運の強いやつが勝っていき、眠気で判断力を欠いたやつが敗けていく。それはべつに楽しい。楽しさが昏く淀んでいることが、憂鬱をさそう。奥さんはいつのまにかいなくなっていた。 賭けずにやろうかとか、ほどほどにして寝ようかとか、そういうことを言うならば、始まる前に言わなければならなかった。しかしそれはもう始まっていた。いつからかといえば、それはわからない。しかしあきらかにもう始まっていて、降りることはできなかった。賭けて、徹夜で、牌を揃える。 むかしと同じに。 半荘終わるごとに金が動くが、懐に入ってくるものも出ていくものも、自分の物ではないように感じられた。その感覚も思い出した。スーパーでアルバイトしていてレジの金を数えているとき、何ヶ月はたらけばこれだけ稼げるのだろうという大金を手にしているのにまったく興奮しなかったことなどの。自分のものではない金に、ひとはまったく関心が持てない。麻雀をしていながら、自分の金は一銭もなかった。自分はすでに敗けていると思った。すでに敗けている盤面に向かわせられている。そう思った。 昼間に解散して、帰ってから夜更けまで寝た。この時点で3日、破壊されている。たぶん翌日も無駄になる。そのつぎもだ。休みが明けて元通りになるまで、苦痛がつづく。反転したのは初日からだ。いまはもう、休みがつらく働きだせることを待っている。横になって目を閉じて、休みに入る前日、エナジードリンクを飲みながら事務所に入ってきた同僚に、それは元気の前借りだ、と言ったら、笑って肩をすくめられたのを思い出す、その景色が笑って肩をすくめた同僚の目からみえてくる。それは元気の前借りだ、と条件反射のように口にした自分の疲れきったすがた。それがわかる。
「おれお前に300円借りてんねん」 坂本の声がした。おれは電話に出ていた。出たことにあまり気づいていなかった。5日の休みの最終日だ。時間はもうよくわからない。 「え?」 「300円。いやおれも今朝思い出したんやけど」 布団のうえに座った。なにが、とききたかったが喉がかわいて出なかったので、水を一杯飲みにいった。マグカップは手首が折れるかというほど重たかった。 「おい、起きてるか?」 「うん。大丈夫。なにが」 「なにがって何」 「いつの、何の300円」 「高校よ。香川の金比羅いったとき。おれの代わりにお守り買ってくれたやん」 4人で金比羅神社にいったことがある。坂本はもともと金がないのに、道中しつこい客引きに遭っていた。押し負けて黄金糖を買わされて、無一文で飴の袋だけ手に持っている坂本のすがたはからっぽだった。飴を持っていたほうの手までおぼえている。右手だ。飴はみんなで食べた。 「あれは買わされたんじゃない。我がで買うたんや」と坂本は言った。そしてつづけた。「まあ、会うて話そや」 そのまま家を出ようと思ったが、このまえの麻雀の帰り道さむくて眼鏡がやたらに曇って鬱陶しかったことを思い出し、コンタクトをつけた。目玉の水分と、コンタクトが吸いつきあう瞬間があって気持ちがよかった。 なぜコンタクトは曇らないのだろう。 外に出ると道は凍っていてあるきにくかった。そういえば、まえの帰り道では雪が積もっていた。雪が降っていたのだ。いま、気がついた。ゆっくりと歩いた。 友達の3人のうち、坂本だけが中学からの同級生だった。途中でどこかから引っ越してきたことを、ほかのふたりは事実としてしか知らない。事実としてさえ知らないこともある。たとえば、坂本が3年のとき引き籠もりになったことなど。ただしそれはおれも、事実としてしか知らない。そのときはそんなに仲良くなかった。卒業式にもこなかった。つぎに会ったのは高校の入学式だった。 坂本は麻雀をした日とおなじマウンテンパーカーを着てカフェにいた。手をあげてこちらにほほえみかける坂本はなんというか平等的な、よゆうのある佇まいだった。きっと恋人相手もおなじ所作でいまみたいに呼び寄せるのだと思った。 「来れるねや、月曜やのに」と坂本は言った。 「いま連休取ってる」 「そらすまんね」 「おまえは」 「おれはフリーランス。まえ話したやろう」 「そっか」 水引がプリントされたちいさなぽち袋を渡される。なかに300円が入っていることがふくらみや重さからわかる、財布の口をあけて直接移し替えた。 坂本がお守りを買うときになぜ自分が貸すことになったのかというと、そのときその場にいたのが自分しかいなかったからだ。ほかのふたりはいなかった。なぜいなかったのか、そこが思い出せない、というと、坂本は、 「それはおまえ、あれくだりで買ったやろ。あいつら最後までのぼりよらんかったやん。おれとおまえだけで最後までのぼってあいつらは先に降りてた。でもみずき、ちゃんと受け取ってくれたよ」 坂本みずきが彼の弟だった。そのときみずきは中学三年で、家に引き籠もっていた。その話しはお守りを買うとき、そして買ったあとにかけて階段を降りながらきいた。 「あいつはおれの真似ばっかりしよる。むかしからそう」 おれが中学サッカー部入ったら、あいつもサッカー部入りよった。バイキングいったときも、おれが取ったもんしか取りよらへん。おれがやったことそっくりやって、真似すんな、って言ったら、真似すんな、って言い返されんねん。そしておれが引き籠もって過ごした中学三年の1年間を。あいつも引き籠もって過ごした。
そして坂本は高校の入学式にすがたをあらわし、坂本みずきはどこの学校の入学式にも現れず、春に死んだ。親のクレジットカードで睡眠薬をネットで買って一気飲み。 「いやそこは真似せえへんのんかい。おれそんなんしたことないねんけど」 坂本は言った。坂本みずきが死んだその話しはいつきいたのだったか 高校のどこかできいた。ふたりともジャージを着ていた気がする。 「渡すときに、お前の話もしたよ」 坂本は空のマグカップを両手でさすりながら言った。気分が落ち込んできているのがわかって、 「おれの話なんかしてもしょうがないと思うけど」 「一応お守り買うてくれたひとやし。まあそれは雑談やん兄弟の、あとおれお前のエピソードで一個すごい好きなんあるから」 「なに、それ」 「秘密」 「何で自分のことで秘密にされなきゃいけないんだ」 「おぼえてないお前がわるい。おれはいろいろおぼえてる」 それから坂本はむかしの話をした。はじめてする話ばかりだった。むかしの話はいまにならないとできないのだと思った。主にはおれと坂本みずきの話だったが、だんだん坂本みずきの話が連なるようになり、やがてそれだけになった。おれは話をききながら、坂本みずきのことを坂本のように知ったと思う。夢中になった。けれど死者の話を前のめりにきくことは、不躾なのかもしれない。それはあとで反省した。けれど、坂本が最後のあたりで言ったことは、鮮明におぼえている。 「べつにおれが何したってあいつは死んでたと思う。おれが先にしてたことをあいつがまねしてたっていうのは、おれがあいつを操作してたってことではないのよ。あたりまえやけど、それは最近になって、ずっと考えててなんとなくわかったことやねん。選んでたのはあいつで、おれはあいつになに一つ干渉できてなかった。あるいはあいつがおれの真似をしているとわかっていながら一年も引き籠もったときに、おれは何かおおきな資格をひとつ失ったんやとも思う」 話をききながら自分のなかに、感覚があることに気がついた。それは五感ではなくて、とはいえ喜怒哀楽のような感情でもない、ただの感覚だった。それははじめての感覚だった。けれどこんな、これははじめてだ、と思うような感覚は前にもあって、 金比羅をのぼったあと一泊した宿の部屋で、坂本は置いてある金庫の裏の底に何かシールを貼っていた。ほんとうに帰り支度の最中で、みんな自分の荷造りに集中していたのだけれど、たまたまその瞬間をみた。来たばかりのときなら気分もあがっていたし何してると訊けたが、帰りぎわの落ち着いた空気であったから、訊こうとは思えなかった。坂本は自分の荷物を持ち上げ、窓をみて言った。 「神は偉ぶっておりすぎとる」 窓からみえる景観は手入れされなくなった裏庭みたいで、そんなによくなかった。そんなによくない景観だからすこし安い部屋だった。 というときの感覚だ。これとそれはおなじだろうか。 坂本とわかれると日はたちまち沈んで1日は終わり、5日間の休みも終わり、翌日仕事がはじまった。 みんなはたらいていた。