眼鏡をかけた男が出てきて私の眼を覗いてきた、私の眼の、眼とまぶたの隙間の、私の、私も知らない奥の闇を見ているような目つきだった。初対面ですることとは思えなかったが、口元は人懐っこい笑みを浮かべてもいるちぐはぐな顔面。肌はたぶん化粧水を毎日使っているようで、白衣のしたは黒いシャツ。 「いや今日ね。あなたしか予約ないんですよ」  清潔な声、喉に消毒をしているのかも。それともこんな小綺麗な空間で呼吸しつづけていたら小綺麗が声にも感染するという、しかし小綺麗、いかにもひとをばかにした言葉だ。予約がないとはどういうことかと訊くと、 「たまたまです。いや、はじめてですがね。今日だけぽっかりと空いていまして。あなたが予約をしなければ、開けずに終わっていられました。」  終わっていられました 変な言い方。終わっていられました だって。私は、 「モーセみたいですね」 「何?」 「モーセ海を割るでしょう、右と左に、そして道ができるんです。そこを私が歩いている格好ですねまるでいま、モーセ」  医師はあいまいにわらって答えずとりあえずレントゲン取りましょうかと言われついていくと小部屋に通され機器がある。  顎をここに乗せてくださいと言われ、乗せた。乗せたらそれだけで、留められたみたいだった。これから何が起こってもやすやすと動くことはできない。野生動物を捕まえる罠がきちんと作動するか確かめてみるみたいなそういう迂闊さがいまの自分にはあったからこれが拷問器具なら死んでいるなと思っているまに煙草大の綿の筒を噛まされて一瞬思考が止まる。「い」の口になった自分が目の前の鏡に、なぜここは鏡面になっているのだろうと素朴に考えている表情が鏡に映っていた。医師が小部屋を出ると機器がうごきだした。あ、レントゲンか。  頭の周囲を何かおそらく私をスキャンするためのものが回転しはじめた。一回動くのにどれほど電気を食らうのかきいてみたくなる大きな駆動の音がするがそれよりも電話の保留音みたいな音楽が鳴りだした。クラシックだか童謡だか知っている知らないメロディを口ずさめる意味を分かってはいないあの、あれらのうちの一曲。  それに耳を澄ませてはいけない。  にわかに気持ちがにぎわいだした。だってそんな音楽が鳴りはじめるとは思わなかったし、それまでの空気とはちがってくる、私は笑いを堪らえようとしたのに、鏡のなかの私がもうほとんど笑いかけていて、つられて笑ってしまうのだった。  綿筒が落ちる、  機器が止まる、  医師が現れて、 「じっとしてくださいね」  新しい綿筒を噛まされて、  医師が出ていき、  機器が動きだす。自分は抜け出せないある種のシステムのなかに組み込まれてしまって、その坩堝にいる。音楽が鳴りだすと私はもうすぐに笑ってしまうので、また綿筒が落ちる。医師が出てきて、新しい綿筒を噛んだ瞬間もうおもしろくなって落とした。綿筒をつぎつぎ口元に差し出されてとても情けない気持ち。何をやっているんだろう自分は、知らない男に差し出されたものを差し出されるまま噛んで、そのまま動かないでくださいと言われて、それだけのことがどんどんできなくなっていく。無心になることを、試みようとすればするほどむしろ抵抗することは難しくなっていき医師、 「早くやりましょうよ」  とため息をもらしたそのとき、いまさら名札がみえる。仲村。  こいつが「なかむら」か。なかむら歯科の仲村だ。それはそうか。でもお前、「中村」じゃないのか。私は仲村が中村ではないくせに看板の「なかむら」をひらがなにひらいている人間性がゆるせなかった。 「この音楽止められませんかね?」 「いや」医師が言う。「たぶんむりですね」 「たぶん? 知らないんですか自分の持ち物でしょう」 「いや」医師が言う。「音楽止めてくださいなんてひといませんしね。いなかったらそんなサブ設定いじることないでしょ。ね? つぎ、やりましょう。もう笑わないでください」 「待って」 「何?」 「早くやりましょうよって言いましたけど、時間あるんですよね。今日予約なくて暇だから。早くやる必要なんてある? 暇なのに」 「いや暇じゃあないんだよ。余裕があるってだけ。無駄にするつもりはないんだ」 「患者と向き合ってる時間を無駄とか言うなよ」 「いや、」いやが多い。否定から入る人間性なのだやはり。「無駄だよ、すごい無駄。もう何分やってんだよ。1分やるから、お前は自分と向き合え。このままじゃお話にならない」  医師が小部屋を出た。私は深呼吸をした。  吸うよりも吐くときに注意深く、肺をからっぽにするつもりだった。肺をからにしたらあとのこっているものは何 真空? もとの心拍にもどしていくさなかで私は思い出した。保留音の聞こえ先。それは小学生の私、公文を休むときにかならず聞いた音だ。  休むなら自分で電話しなさい、と言われてするのだった。  公文教室の先生はうまく嘘も吐けずにあいまいな理由で休む私を責めたりすることはなかったが、かならず一度保留した。20秒か、30秒。何の保留だったのだろう、そのとき先生は何をしていたのだろう。そのときの音楽と、それが一緒だった。それというのは何だ、  レントゲンだ。  レントゲンは撮り終わっていた。

撮ったレントゲン写真を前に座らされたかと思うと、座らされた椅子が自動で倒れて私は横にされる。口を開けろと言われ、開けるに決まってるだろうそんなもの歯医者なんだから、と答えるための発音はもちろん口を開けたままではできない。 「はい」  と言うニュアンスの、 「ああ」  という言葉だけゆるされて。  歯を触られているあいだ、何か自分の考えていることが筒抜けであるような気がした。自分の頭のなかが覗かれていると思うと私の頭は露悪的に振るまってしまう。おい、何見てる、しけた面で、マスクで口元は見えない、見えないけどどうせ臭い口隠してるんだろう、臭い口が磨いても取れねえんだろうな、指しゃぶったろうかな。 「喋るな」  と医師が言った。 「うざ。いいからはやくやれよ」  と私は答えた。

公文教室は静かで、渡された問題を目の前に置いて黙々と解くのだったが、黙々と解くためには黙々と考える必要があり、私にはそれがうまくできなかった。黙々と考えること。それをできないなりにやっていて、やったとしても、解いたとしても、終わることはない、新しい問題がでてくるだけだ、公文の終わりはどこ。公文の終わりはどこにあるのだろう。そこへ辿り着いたひとはいたのだろうか。喋ったりはしなかった同じ教室にいた数々の生徒のなかのだれかは、そこへ。 「こことここ」と医師は言う。促されて何度かうがいをしたが取れないえぐみがすみにある感じ。「あとこれも。これもそう。ちいさいけど虫歯です。まあこのへんはこの欠けてるとこ治してからだけど。欠けたとこはもう神経触んなきゃいけないから麻酔打つね。そこ、今日やっちゃおう」それから自分の口の中の現状を説明される時間があり、説教じみたことも言うから私は私なりにきちんとした生活をしてきたつもりで、ただそんな私の誇りある生活をこんな人間に開陳する必要はないと決めて、むかしからこうだった、と言う。  私はむかしから歯が悪いことはわかっていて、つめたいモノを飲んだときとかにはしみる部分もあって、でもそれがふつうだった、実害がないならいいかと思っていて、しみているのは実害だとあなたみたいなひとは言うのだろうが、だからそれは私にとっての普通なのだから、実害とは思えない気持ちくらいわかりますよね。手先とか不器用なんですよ私、つまりそういうののひとつとして数えていたそこのところが、欠けた。  欠けたのは6ヶ月前だ。 「いや。欠けてからじゃさあ」医師はため息をした。「遅いじゃん」ため息だ。そして笑った。許せない。 「何を笑ってる?」 「お前に言われたくねえよ。麻酔打つぞ」  殴ってやろうかと前のめりになったところでまた椅子が自動で倒れていく、横にされていく、  ういーーーーーーん  ういーーーーーーん じゃねえよ。  横にされたあとは天井の照明が真上にくるので目隠しのタオルをかぶせられる。何をされているのかはわからないがしばらくするとちいさい痛みがあってそのあと麻酔が効いてくる、しびれる。何か始まっている。歯医者の音がする。こんなにちかくできくのははじめてだ、と思う。それら歯医者の音のすきまで医師がひとりごとを言っていた。 「やっぱ麻酔効いた歯にむちゃくちゃするのが一番好きだわ」  あ? と思うが何もできない、また留められていた。私は今度は歯医者というものに留められている。何かできることはないだろうかと考えていると、そんなつもりもなかったのに頭のなかで保留音がながれだす。それが歯医者の音を上書きする。その音楽だけがこの歯医者のなかにあって、歯医者でない音だった。知らない音楽、知っている音楽、なつかしくて胸がくるしい音楽、果てしなくながい、果てしなくながいと思っていたのは受話器を耳につけていた私。いまその音楽は、だから、だけど、20秒で途切れてしまう。唐突に。 「おまたせ。うん。わかりました。いいよ。つぎは元気に来てね。待ってるから」