同時に何曲もの音楽がなっている、外はまるでそんなさわがしさだった。 つい30秒ほどまえからとつぜんそうなった。 閉めきった窓からでも、窓なんてないみたいにきこえてくる。 氷のかたまりがベランダにころがってきたのをみつめておもむろにきみは写真を撮った。 手に持ったスマートフォンでそのまま、何か調べている。 そして呟いている、ちょっけいがごみりをこえていたらひょう…… 「ひょうだね」 「ひょう?」 「雹」 「ちょっけいが、えぇ、ごみりに……」 「直径が5mmを越えていたら雹」 「雹か」 雹か。雹ね。あられじゃない方。雹か。 それは、何だっけ。それにしても外がうるさいなと思って窓をみるとそれが降っている、あぁこれが。 これが雹か。 雹? 「わかる? 雹」 「わかるよ」わたしは言っている。「でもなんだかつかめないな」 「ぼんやりしすぎ」これはきみが言っている。「限界じゃん」 うん。わたしがぼんやりしているということは、ときどきわかる。 経験的に、去年断食したときにも、それは起こった。わたしの場合、4日目にそれは起こる。 わたしはそれを洞(ほら)と呼んでいる。洞に入ったということだ。 洞ではいろんなことがわからない。 ときどきわかるのだが、それはすぐになくなる。すぐになくなるが、そのときどきわかることがらのなかにはふだんわからないこともある。はじめてわかることも、すぐになくなるが、そのときはある。 わたしにはいま、これ以上飢えたらとりかえしがつかなくなる危機感があって、それを、もっと飢えてもよい、飢えるべきだという使命感がかくまうかっこうでこうなるとほとんど、何もできない状たいであることを自主的に何もしないていで何時間もうずくまることができる。 去年はそれで1週間食べないでそのままびょういんに送られた。だからことしは4日めのきょうで終わろう、そういう話のはずだった。 それはあくまで自分で決めたことだ。 きみはそれを心配そうにみつめていた。 きみはわたしの断食のために乾麺や冷凍しょく品などの保存できる食べものを前の日までよく食べてくれた。よけいな欲望がうまれないように、家のなかの食べものはそうしてなくなった。 きみが大事にしているのは義理と人情だ。 何でときどきこうして食を断つのかをきみが知らないのはわたしがその理由をうまく説明できないからだけど、ただ説明できない何かに対してわたしがわたしなりに確かな解釈をしていることを、きみは承知している。 わたしなりの確かな解釈って何。 たぶん、わたしは若いのだと思う。それはこれからもたくさん生きるということのなかでちょうどこの昼下がり、空っぽのおなかが新たに満たされないままあることが流れる時間をせきとめる。 つまり、飢えるほどそこに残るわたしはわたしなのだ。 取り込んだもので動き、動きによって取り込まれる身体にあってその確固たる部分そこだけが、たくさん生きていくなかでほんとうに生きている稀少な、ほんのすこししか取れない、魚にもあの、まぐろのそういう、そういう部分がまぐろにもあるでしょう。 それからしばらくまぐろのことを考えた。
「え」
きみがスマートフォンをみている。いつのまにか、机のうえには氷が皿に乗って置かれていた。
「ひとり死んだって」 地方新聞のソーシャルアカウントが報じた。 「雹でひとが?」 「うん」 「きいたことないよ」 しかしおおきな雹だった。それ取ってきたの、と訊いたら ベランダの、ときみは言った。 こんなのがたくさん降っているならいくらなんでも死ぬかもしれない。断食はきょうで終わらなければならないし、買い物に出かけなければならないのだが。 それにしても、いくらなんでも死ぬかもしれないという雹に道を歩いているときとつぜん出くわしたら、わたしはただしく避難できるんだろうか。 このまま何もしなければ死ぬというとき、すすんで生きようという気持ちにうまく心を切りかえられるだろうか。 そんな気持ちでふだん生きていないから、わからない。 もちろん死にたくなどない。 でもせっかくだから、その決してみずから選んではいないわかれめの帰路ではない反対へ、せっかくだからそのさきへ、という。 そういう考えかたもある。せっかくだから。 せっかくだから、きみとわたしは一緒に暮らしている。そう言うこともできると、わたしは思った。 「どのくらい降ってる?」 「もう15分くらいかな」 「それってながいの、みじかいの」 「どうかなあ」 「ねえ、やっぱり外にでない?」 きみはしばらく考えて、まだ止みそうにない雹の外をみあげ、でもかなり痛いと思う、と言った。 たしかに、きみが雹に当たって痛がるすがたは想ぞうすると堪え難かった。 悪いところにあたって死ぬかもしれない。 はっきりとそのイメージができた。 わたしなら死なないだろう。わたしはそれを選ばないかぎりは死なないのだと思う。 きがえて、靴を履いた。 「お刺身が食べたいから、買ってくるよ」 きみは、 「おれは詳しくないからわからないけど、いきなりそんな動物性のものはよくないんじゃないの」 と言う。それはたしかにただしいかもしれない。断食からの回復食というのがあり、わたしは適切なものをすこしずつ食べていかなければ安全にもとにもどることのできない身体であることを思い出し、 「じゃあお刺身は食べていいよ。わたし下に敷いてあるやつ食べるから」 きみをのこして外に出る。 きみはきみの信じる義理と人情によって、それを黙って見送った。 幾重の音楽かと思われた騒音も外に出てきくとひとつひとつがひとつずつ音を立てているのだというのがわかる。 軒下の際。そこでわたしはしばらくのあいだ雹をみた。 その音をきいただけでドやラがわかるというひとの気持ちはもしかするとこういうものなのだろうか、やかましさのためこんなにも鮮やかな雹の降る町よ。 それと、雹が流されていないので気がつかなかったが、とても風がつよかった。 目の前で雹が落ち雹が落ち雹が落ち、泡のように弾けて割れている。 飛沫の破へんがわたしと反対の方向に跳ねて散る。 ほら。いける。 これらの雹のひとつとしてわたしに当たることはない、ないこともないが、ふつうに考えたら当たるものなのかもしれないが、わたしがそれを受けつけることはない。そこはわたしが決められる。ふつうに考えるも何もない。 これまで降った雹。 いま降っている雹。 これからも降る雹。 そのすべてがひとかたまりになってわたしのまうえに落ちてくるのでもないかぎり、それは効かない。ちょっけいがごみりをこえていたらひょう。そんなものは、結局のところわたしのなかに意味をもたない。財布をにぎりしめてあるき出す。わたしは、雹のしたに身を置く。 そして、血まみれになって帰ってきたわたしをわたしは笑っていたのだが、きみは何も言わずその傷口のひとつひとつをふさいでいってくれるのでそんなつもりもないのに泣いてしまい、わたしは自分が何を考えどう感じているのかも何も、もうわからない。ただ血や涙などすべて出し切ってもわたしは難なくわたしであったので、このままわたしが死やわかれを選ばずなにもしなければここにいるそのひとと生きつづけられる確信にめまいを起こしてたおれた。 そして半日経ってまよなかに目を覚ましてもまだきみがそこにいた。