切り傷が腕にできていた しかし何で切ったのだろう 切るようなものは何もなかった。 だいたいここには砂しかない。 血は流れ出てくることはなかったがそこに赤く溜まっていた 力むことで垂れた。 そこでおれは自分の血を一滴だけ砂に落としてみた。 地面に黒い点ができた。 すぐに乾いて消えるかと思ってみていた けれどなかなか消えないのでまたしばらく歩いた。 なぜこんなことをするのかというと おれはもう何時間も歩いていて 日々の生活で考えそうなことはあらかた考え終えたからだった。そうすると自ずと意識は風景に向くものだ ところがここは砂しかない。何か言葉を生むくらいおれに感想を与えるものがここにはなかった。 だから血も垂らす。 実際のところ考えたいものはある ただそのことは原理的に考えられなかった。 それはある友達とふたりで飲んだ前の晩のことだ。 おれたちはかなり長い間付き合いがあった もう充分に打ち解け終わったあとの人間関係が何年も前からつづいているのだと おれはそう思っていた。 けれどその日はお互いの未開の領域をまた新たに共有しあったという独特な感慨があった。 おれたちの関係はこの日の以前と以後でわかれる そしてこの日があったためにおれたちはこのあとも一生続く関係を もう手にしていたと思っていたが実はそのときはじめて手に入れたのだ。それが約束されたのだという感覚があった。 酒をずいぶん飲んだ。 酔いがまわり最後は座敷にほとんど横たわるくらいになった。それでも飲んだ。 そして帰って寝た。 そのとき夢をみたのだ。その夢はもう忘れた、その夢の話は重要ではない。 たぶん おれからその夢が剥がれて忘却の底に引き込まれていくとき、接着面についていた糊が昨夜の記憶にくっついて巻き込んでしまったのだ。 おれは昨夜、友人とどんな話を交わしたのかどうしても思い出せなかった。 いまや光景の残像が浮かび上がるだけだった。残像に強度はない。どこかに焦点をあわせようとすると無理にイメージになろうとして耐えきれなくなる。 忘却が加速するのだった。 原理的に考えられないとはそういうことだ。だからおれはその残像を守る もう干渉することのできないその時間のその空間に背を向ける 侵入者を阻む門番としておれは存在していた。そのなかで戯れている王を そこで王が何をしているか おれはみてはならない。知ってはならない。 翌日 つまり今日 起きたらおれはひどく憂鬱だった。酒が残っている感じもすこしあったがそれではない。外はとても晴れていた。何度もため息が出た。しばらくはラジオをきいて気を紛らわせていたがだめだった。 それでいまこうして歩いている。 歩きながら昨夜のことを何度も思い出そうとした。 太陽はいつ何時も隠れない 日射しは大変なものだった。とはいえ不思議と汗はかかなかった。日本の夏と比べてみても過ごしやすいほうに思えた。 水さえあれば。 前方は地平線がみえるだけだ こうなるとそろそろ引き返してもよいのかもしれない。 何がみたいというのでもないが 何もみえないのは退屈だった。 おれはしかし引き返すきっかけをつかめずにだらだらと砂漠を歩いた。踵を返すために身体へ力をかける動機が見つけられなかった。暑さも限界のすこし手前で止まった。日が沈みかけている。 沈んだら戻ろう いや沈む前に戻ったほうがいいのか。そんなことを考えていると、いつの間にか視界に水場がみえていた。 あれがオアシスか せっかくだからあれをみてから帰ろう そう思ってそばまで寄った。 ごくちいさな水場だった。しかしその分澄んでいた。花の咲いたサボテンがひとつ植わっていた。そして男がひとりいた。 男は白い無地のTシャツに短パン姿で座っていた。横に置いてある荷物はそれほど多くない。暇そうだ というのが最初の印象だった。水場の向こうからこちらをみていた。 叫ばなくても充分に声が届く距離 話しかけようかと思ったがそれなりに喉が乾いていたからまずは水を飲もうとしておれは膝をついた。すると男のほうから声がかかった。 男は荷物を持ってこちらまで来た。そして言った。 「ちょっと待って。あんまり無防備だと危ないですよ」 「何がです」 男はおれの姿をまじまじと眺めた。 「そんな格好で こんなところまでよく……」 「喉が乾いてるんだけど。話があるなら飲んでからききます」 「腕」男が言った。「切ってますね。それ、何で切ったかわからないでしょう」 男はおれの横に腰かけた おれはおれの腕をみた。なぜだか傷はさっきよりも深くなっているような気がした。それにさっきまでなかった痛みが ささやかではあるものの 感じられた。 「この砂漠ではよくガラスが捨てられます。旅行者も地元の人間も ほら砂漠って何もないから すこしくらい異物が混じったとしても支障をきたさないと思われる。だから店で飲んだ空き瓶なんかを捨てていく。それに気分としては、」男は荷物を探りはじめた。「捨てるというか 残していくんです。しるしなんです」 「何の話ですか」 「その切り傷ですよ」 「切ったのは腕だ 足じゃない」 「捨てられたガラスがここでは長い時間かけて砂で削れていって ひとの目には見えないほどの粒子状になります。それが風にのって、この砂漠全体に舞ってるんですよ。だからそうしてときどきひとを切ったりする」 そうこうしているうちに日が暮れた。太陽本体は姿を隠してその残光でまだ何とか明るい。砂漠の夕暮れはこんな風に終わるんだな とおれは思った 声もなく終わる しかし第二幕を告げるみたいにどこか華やかでもある日の沈み 男が取り出したのは2つのコップとコーヒーミルだった。 男はそのうちのひとつのコップで水を掬った。それをおれに渡した。 「あなた私がいてよかったですよ。こうすればあとは普通に飲んでも問題ない」 「水にもガラスが?」 「特徴があるんです。“ガラス風”だったらその風の “ガラス水”だったらその水の自然な流れを妨げてはいけません。それらは自身の自然な流れを妨げるものに対して切りかかります わかりますか?」 「何も」 「コップに汲まれた以上、水は飲まれるべきです。怖がらないで 飲んで。怖がると余計危ない。何てことのない水です」 おれは言われた通りに飲んだ よい水だった。一息に飲むと食堂を通って胃に流れるのがわかった。その感覚をたしかめつつおれは彼の言っていることをすこし理解しはじめてもいた。 彼は気がつくと豆を挽いている。男の荷物からつぎつぎにアウトドアショップでみるような道具がでてくる 卒なく カジュアルに 男はコーヒーをつくろうとしていた。それを観ているとおれは段々男に興味がわいていた。何よりコーヒーミル みればみるほどに不思議な感じのするミルだった。見覚えのある というかごく普通のよく見知った形をしているだけのそのミルを おれは何か 知りすぎている 男がそれを使う様子や中で豆がどのように挽かれているのかといった そのコーヒーミルすべての側面を一度に理解しているような。 そんな気持ちがして落ち着かなかった。 「あなたは」おれはそこから意識を逸らして言った。「ここに住み慣れているって印象がすごくある。キッチンみたいにこのオアシスを使いこなしてる」 Tシャツ男が笑った。 「このあたりで暮らすものは当然みな使いこなします。使わなければやっていけないし、実際使わなければいけない。使わされていると言ったっていい。オアシスなのだからそこに住むひとはそれを使わなければいけない わたしはあなたにコーヒーを淹れなければならない。ここはすでにそういう場所なんです 従うほかないんです」 「はあ」 「あなたはどこからきたんです」 「日本です」 「手ぶらで?」 そう言われてたしかに手ぶらだと気がついた。何も持っていない。ポロシャツに仕事でも使うスラックスとスニーカー。 そんな格好で砂まみれだった。靴のなかにも砂が入り込んでいる。その異物感が急に不快に感じられてきた。 おれはそれからまたいくつか質問された その答えの中には自分ではじめてそうであると気づくようなものがいくつかあった 今朝までは日本の自分の家にいたこと 憂鬱がひどくなって散歩にでかけたこと けれどただ歩いているだけでは物足りず電車に乗ったこと 空港で飛行機を眺めていたこと。 おれは数年前からそんな風に休みの日を過ごすことがあった 空港まで行って飛行機を眺める ひろい滑走路をおおきく使って飛び立つ飛行機はみていて飽きなかった。 しかし飛行機には乗ったことは今までに一度もなかった。パスポートも 大昔に一度つくってからもう期限が切れたものしか持っていない。 男からコーヒーを手渡された。おれはその水面をよくみてみた。ガラスが含まれているような気配は感じない。このシチュエーションで飲むには熱すぎる飲み物だとも思った。とはいえコーヒー自体は好きだ。もともとおれは夏でもホットコーヒーを飲む。 「コーヒーを飲むと目が醒めるかもしれません」 「かもしれない?」 奇妙な言い回しだと思った。 「それにしてもあなたはこんなところへわざわざ来る必要があったのですか? もっとそれ以前のどこかで ここへ来ないで住むような措置を あなたは取ることができたんじゃないですか?」 「それは」おれはこたえた。「たしかにそうかもしれない。たかだか散歩でこんな知らない国の知らない砂漠まで来る必要なんて全然なかった といえばそう。でもそれははいかいいえで分別つけられるものではないようにも思います。おれはもうここへ来てしまったし あなたのように言えばそういう風に こういう風になる流れがあったんだと思う。そこについてはもう仕方がないんです。それ以前 というのがどこからのことなのかおれにはわかりません 自分のことだとしても」 男は自分で淹れたコーヒーに口をつけた。 「まあわたしはただ単に親切で心配してるだけだから そういうならいいんですが。だとしても 哀れなひとだ」 その言葉はやはりその男の言うとおりに親切で心配しているのだというのが芯から伝わってくるようだった。だから腹も立たない 男はつづけた。 「改めて言いますが気をつけてくださいよ。普通のひとはせいぜい口の中を切るぐらいだけど あなたの場合は深く傷つく可能性がある」 「おれは普通じゃないですか」 「まあまず日本人がめずらしいですが それにしてもね。自分ではわからない?」 何となく笑っておいた。おれは男がした所作とできるだけ同じ通りにコーヒーに口をつけた。コーヒーの苦味が口のなかいっぱいにひろがった。けれど血が出たりはしなかった。おれは安心した。 そのとき男がいきなり立ち上がった。それから小声で「危ないな」と言った。おれは男のみている自分の背後を向いた。つむじ風がすぐそこまで来ていた。 それは地面のあるちいさな一点から猛烈に吹き上げてくるような音を立てている。その音はもっとずっと前から聞こえていたのだ。すこしずつ大きくなりながら近づいてきたから 気がつく頃には避けることもできないところにあった。 背中につめたい感触が走った。おれはこのとき 彼を守らなければならないと思った。 彼を巻き込んではいけない。というのは このつむじ風はおれのものだからだ。 辻褄合わせなのだろう。おれはここへきてもう理解しきっていた。この場所において辻褄は常に合う。後になってからでも無理やりに合わせられざるを得ないのだろうことをおれは知った。この風はそれだ。おれはいまでは門番面をして守っているが すでに一度はそこへ足を踏み入れてしまった。かつてないほどの自由へ。 おれはそのつむじ風に向かい合おうとした。けれどもそれと同時に手を思い切り引かれたのだった。飲みかけのコーヒーがこぼれ散った。それが男にかかるのをみた。おれは投げ出された姿勢のまま水場に飛び込んだ。沈んでいくほど深くはない。一瞬混乱したもののすぐに方向感覚を取り戻して上半身を起こした。 つむじ風は跡形もなくなっていた。Tシャツ男が切り刻まれて倒れていた。おれはずぶ濡れになってはいるが無傷だった。もうかなり暗かった。その薄闇のなかにあっても倒れた男の周囲の地面は黒いのがわかった。おれは もう帰らなければ と思った。 いままでが嘘のように寒かった。いままでは嘘だったのかもしれない。しかしいままでが嘘だろうと嘘じゃなかろうと いずれにしてもここからは何も嘘ではない。限りなく不自由な どこもつくろうことのできない現実だった。 だから地平線の境目がわからなくなる前に帰らなければならない。