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私はあなたよりも一足先に起きてキッチンの、コーヒーマシンのいとなむ音をきき、きこえる、それは内部で水を熱くさせドリッパーに垂らす抽出の一連が外側からはほとんど何も見えないにも関わらず工程ひとつひとつが想像できるということだ。今朝はたいへん目覚めがよく、鋭い感覚を寝床からすこしも傷つけずに階下のここまで持ってこれていた。こういう日があるたび私は、ほらやはり、ひとは夜よりも朝のほうがより野性的だ、という思いをつよめている。耳にも眼にもリアリティが宿っている。現実に現実味をもって接するということを、多くのひとはできないでいる。 私にはいま現実に、現実を満たすほどの現実味がある。 畳んでかけてあったスツールを適当な場所に置いて腰掛けて、部屋を見渡してみてもやはり生の感触がした。何かいままでに感じたことのない鮮やかで目新しい感想がわいてくるということではなく、ただそれら全体が肌に触れてくる、というか、呼吸する鼻や口を通して行き来している、というか、何かそういう、それを何がというのは難しいのだけれども、ここにある物事のすべてに私が関連している気分がするのだった。 コーヒーを半分飲んだあたりで上から物音がした、朝起きてきてごはんを食べるまでに、ごはんが食べたくなるまで本を読む習慣があなたにあることを私は、もうそういう習慣があると思うでもなく知っている、いつからそうなったのだろう、あなたの習慣を習慣とも思わなくなったのは。スツールから立って場所を空けた私にはこのスツールがあなたのものだという感じがどれだけ歳月を経ても消えないでいる、とはいえそれはそれで定着しているから違和感もない。勝手に使わせてもらってるという意識もあるし、あなたのためにどいてやる、という意識もある。 スツールを一個買っておこうと言ったのはあなただったと思う。座り心地は大して問題にせず、折りたためてなるべく軽いものをえらんで買った。 えらんだのは私だったと思う。 だからそう思うのだと思う。 あなたが文庫本を一冊持って降りてきた。眼をこすって、私をみて、それから向こうの窓から射している陽の光をみて、しばらく止まる、私はその姿に眼で触れた。 こういう状態のひとのことを何というのだろう、と私はあなたと暮らし始めてから何ヶ月か考えていて、私はあなたに、私の友達にこういうひとがいるんだけど、というていできいてみたらそれは忘我だね、とあなたは答えた。それから私は、あなたは我を忘れっぽいひとなのだと思うようになった。あなたは“我”なるものを別の何かにすぐとられてしまい、そのあいだあなたはあなたのなかに代役をたてることもないからそこは留守になる。午前いっぱいは話にならないことさえある。それは私の野性とすこし似ている。ちがうところは、私の朝の野性は、朝起きたばかりのまだ無防備の頭が覚醒とともにすこしずつ理性を取り戻していきやがて完全に覆いかぶさるまでのあいだだけあるけれど、あなたのそれは時刻を問わないことだ。
陽の光に忘我するあなたを野性が捉えている私、が、
もとにかえってきたあなたにみられていて、私のほうがあとからその状況に気づくというのはまったく不思議だった。あなたが空いたスツールに座って本を読み始めるということはなく、ここからがキッチンという間仕切りの壁にもたれたままじっと私を、忘我していない、忘我せずに見つめている。「私はここを出ようと思っている」とあなたが言った。所在なく飲みさしと思っていた手元のマグカップをのぞくとコーヒーはもう空だった。そのあとであなたがいま言ったことがきこえてきた。 何? 私はここを出る。いいかな。 それって、と私は言った。それってどういう話。 別れ話。 レンジがチンと鳴った。誰が何を温めていたというのか、昨日炊いた米がふたりぶん出てきた。 なるほどね、とはどうしても思えず、とはいえ実際のところかなり研ぎ澄まされていた私の頭のかなり核心的な部分では既になるほどねと把握しはじめているけれど、それは決して口には出さず、「何それわからない」と言った。言ってから、つぎに、ああ一旦外に出ようと思った。はじめにあなたに見つめられたときうっすらと感じた所在なさが会話するなかでどんどん大きく膨れ上がっていったのはたぶんあなたが我をとられるという形で忘我したのではなく私のほうへ我を移して来るという意志のもと忘我したからだ。写してか、映してか、私の頭は冴えているから変換がたくさん出てくる。盗られる、と思った。撮られる、採られる。 あなたは私の座っていたスツールに座った。私は居所をなくした。 それで外に出た。 出るほかなかった。 そういうことがいま、起こったのだと思った。 近くで流れている川をしばらくみてから家に戻った。午後になりかけていて、私のもとにすこしずつ人間的な理性が集まってきていた。それは直感的な考えを鈍らせていって、あなたの言ったことの意味も意味としてわかってきた。建設的な話し合いをする場面にもなるだろうと思った。あなたはここを出ると言ったけれど、じゃあ私はここに残るのか。残ってどうするのか、金銭の問題もあるがそれについてのあなたの考えなども訊ねるだろう。帰路にあるよその住居を何軒もまじまじとみて、すると自然と見上げる格好になる、食道に引っかかっていたコーヒーの苦味らしき風味が閃光めいた輝きを最後に放って消えた。 建設的な話し合いなどが、 と私は思った。 あなたは私が納得するまで話し合うつもりだった。私はそれに応じることにした。私は納得するまであなたを引き止める。しかしそのための話し合いは、午前中にしかしないことを提案した。 あなたはそのことを承諾した。 4年間ともに暮らした家で、その別れ話は半年つづいた。
約束がされていた。私がしたのでも、あなたがしたのでもない約束が。 それが破られた だから私たちは別れるのだと思う。 とあなたは言った。
―朝はごはんだったんだよ、私は。醤油をかけた目玉焼きと米、それに納豆。民宿の朝ごはんみたいなのが好きなんだよ。それをあなたは奪いました。気がつけば毎朝ロールパンで、私はそれに、同意させられていた。
朝ごはんについては最初に話し合ったはずだし、それだったら私だってごはんに揃えようかと提案した。何だったらお互い好きなものを食べるかたちだってよかったし、何だってよかった。それを強く押し切って私のほうに合わせたのはあなただった。頑なに寄り添ったのはあなたの方じゃないか。
―公平ではありえなかった?
公平さというのが気持ちの釣り合いなのだとしたら、決まりをつくればよかったのだと思う。要するにあなたは片方の信号が青のときに、もう片方は赤なんであって、それを代わる代わるやるようなのを求めているのであって、それはたぶん、私も求めていたことだ。あなたはずっと赤の信号で停まっていた。私がいくらか道を譲るような真似をしても、あなたはその赤に停められているので動けないし、私だってどうしようもない。
―いまからでもそういう交通ルールを作ることはできるんじゃないでしょうか?
いや、もうできない。はじめに作られていなければならないものを、後付けすることはできない。 **** *
―正直なところ、私はあなたのそういう諦めの早いところを受け入れていいものかずっと悩んでいました。私とあなたの関係性というのがいま仮に破綻しかかっているとして、それが何かあなたから一方的に感じられるものとしてであれ表面化してきたことに対して何か、措置が取れるのではないでしょうか。私とあなたで。私は、それについてならいくらでも協力的になれる。
あなたが受け入れるだとか受け入れてないだとかは問題じゃないと思う。それは私にも判らないけれど、私やあなたのどちらにも、それを問題として取り扱う術がないような気がする。関係性はもう変わっているわけで、あとはもう、適応の段階が残っているだけ、みたいな感覚で。それを諦めていると言い換えることはもちろんできるけど、私としてはそれは適応。
―適応。つまらない言葉だと思いませんか。
そうかな。
―つまらないよ。
そうだとしてもやはり私は諦めているつもりはないし、妥協をしているつもりもない。可能性の話をするならそれは無限にありえることしかこの世にはないわけで、どうにか回復する可能性があると考えるなら、それは実際に可能性としてあるんだと思う。でも私もあなたも、ひとは、そんな無限の可能性に耐えられないんだよ。一個これというものを定めて、それ以外を消していくことでしか進めない。
―定めなくていいでしょう。定めようがどうしようが、進んでいくよ。進めないなんてことは、それこそ、私達には取り扱えない問題だと思います。いつでもそのつど迷えばいいし、迷いつづけて選べなかったとしても、それでさえ物事は進んでいくんですよ、どうせね。
そのほうが諦めていないか?
―諦めていない。
―あなたは夜、よくお湯を沸かしていました。何に使うでもなく。夜中にいきなり起きたかと思ったら急にキッチンに降りて沸かして、何がしたいんだか判らない。
だって私は沸騰するお湯をみると心が落ち着くから。泡が現れては消えて絶え間ない、何かそういう躍動めいた動きに安らぐ精神があって、それでないと安らがないんだ。そうしないとだめなときがあるのは・・・・・・。それに何ヶ月かに一回のことでしょう。私が時々そうなることを、あなたは承知してくれていると思った。
―承知してた。していました。私が許せないのは朝、冷めたのが鍋に残っていることです。痕跡を残すのはなぜですか?
残しているつもりはなかったな。私にとってはお湯を沸かすことが目的だったから、あとのことは気にしていなかった。水は汚いものじゃないし、沸騰していればなおさら清潔なものだとも思っていたから、捨てるという発想があまり浮かばなかったのかも。
―何の用途もないお湯を沸かすのはいいし、それをみて心を落ち着けるのもいい。30分ガスがつけっぱなしでも文句はない。だけどいちばん忘れちゃいけないことはそれだよ。あなたがお湯を沸かしたということを、私に悟らせていいと思っているのか?
甘えだったのかもしれない。
―甘えだよ。私はさっき、何がしたいんだか判らないと言ったけれど、本当は判るよ。判らせていることが、まずいよ。
ごめん。
―ごめんじゃないけど。
―あなたはこの朝の時間を何か答え合わせのように思っているかも知れないが、私はそう思わない。一問一答で済むような事柄はもう私達のあいだには何ひとつなくて、何かひとつ話題をあげればそれは他の様々と繋がってもつれている。私達がもう戻れないというのはつまり、そういう意味で、です。正確なことが何も言えないくらいに、曖昧で独自の、こういってよければかけがえのない関係性になってしまった。それは判りますか?
私は、私達が何年か前に雑貨屋さんに行ったときにみた、いや、それをみたのは私だけかもしれないけれど、パウル・クレーの『忘れっぽい天使』がプリントされたマグカップをずっとおぼえている。それを私は、あなたかと思った。似ている、という意味ではなく、あなたとそれは、同じだった。 私達の関係性についての感覚は、判る。抱いているイメージは同じだと思う。けれど私はその『忘れっぽい天使』をみて、その日のことをおぼえている。だから、私達がもう戻れないということには同意できない。これは判る?
判らないでしょう。
―だってそれは判るように、言っていないじゃない。
でもこれは正確に何かを言っている。 私達の関係性が複雑になってしまったといえるように、そのことについても私達は、判るようには言えないかたちで、言い表すことができる。あなたは間違っていると思う。あと私はこれを答え合わせだとは思っていない。
―じゃあ、何。
読書。あなたがこれまでの朝、ほとんど毎日していたような。 *
―まだ話すことがありますか?
ある。あるけど、もういい。
朝、野性的である私は言葉をむき出しにすることしかできない。というよりもそれがむき出しであることをお互いに自覚できない。話し合いはだからこそ朝にだけ行われて、夜はいつもどおりの関係に戻った。いままでそうだったように、時々はどちらかのベッドで一緒に眠ったりもした。そこでは別れ話はひとことも交わされない。あくまで一夜明けて、目覚めたあとで行われる断続的なひとつの会話だった。 本当はもっといろんなことを、何しろ半年あったのだから、話し合ったのだけれど、ほとんどおぼえていられなかった。それは意味の通っていることをお互い言ってはいなかったからで、言葉に身体があるとするならまちがいなく全身を使っていた。おぼえていられないような会話がしかし毎朝進行していて、おぼえる、とはちがう仕方で私たちはそれまでを踏まえてつづけた。 話したことは何ひとつ、思ってもないことだった。 あなたは荷物をまとめて家を出ていった。既に出ていったのだった。 私は朝、コーヒーを淹れて、かなり広く感じられるようになった部屋をぼんやりと見ながら、あなたが持っていかなかったスツールに座る。ぼんやりしているとときどき視界の端にきらきらと光るものがあって、そっちに意識を向けると何もない。 ここを出ようと私も思う。明らかに持て余しているから出ようと思うのだけど、腰をあげるのが重く、面倒で、進まないのだった。 もうすこし長く話していられたかもなと思う。半年と言わず、一年とか、十年とか、どちらかが死ぬまで話し合っていられたかもしれない、とは思う。もしかするとあなたが望んだのはそれだったかもしれない。だけど、いずれにしてもそれは既に終わったことだ。 あなたが望んだ終わりを、私が選んだ。 私が望まなかった終わりなら、あなたは選ばなかっただろうか。いや、 私はいま何を言ったのだろう。 やがて朝が終わると段々そんなのもなくなって、静かな生活が私へ訪れてくる。 たぶんいまごろはあなたにも。