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天気がよくてよかったなあと思う。ふたりがコンビニに入っていくのを眺めたあとでしばらく、シートベルトだけはずして、助手席にもたれていた。形のちがう雲が2つ重なりかけていたから、重なるところを見とどけた。見とどけ終わったら煙草が吸いたくなったが、今朝吸った分でなくなったのを思い出した。 目を閉じて呼吸していれば何となく時間は経って、ふたりが帰ってきて、車がまた走りだして、会話が再開し、そうしているうちに煙草のこの吸いたさは忘れるかもしれない。家森はわざとらしく腕を頭の後ろに回して組んでみもし、遮音の行き届いた車内にあえて耳を澄ませたが、澄ませてもなお物音ひとつ聞こえないこの静けさの、内から抉ってくるような息苦しさに目を覚まし、この狭い場所が途端にこわい。それでコンビニに逃れることにした。 レジに、すぐに行って番号を言った。会計の直前で横の保温器に入っている缶コーヒーが目に留まったのでそれも買った。渡された煙草が欲しいのとちがったが、それは自分がいつも使うコンビニでの番号を癖で言ってしまったからだと気づいた。店内ではかごを持った滝尾の足元で七穂がしゃがんでいる。菓子の棚だ。ながくなりそうだった。家森からみればふたりとも優柔不断だった。先に出て、外で煙草を吸っていた。 家森はまだ物を考えて喋っていないころの七穂を七穂ちゃん、と呼んでいた。けれど会話らしい会話ができるようになり始めると、七穂さんと呼ぶようになった。記憶では7歳くらいだったと思う。それまでにも意思疎通は取れていたのだが、彼女の話す口ぶりに情感のようなものがこもっているのを感じたのがそのあたりからだったと記憶している。こちらの言葉をきいて返す、それができるようになるのがいつ頃で、七穂のこの成長が早いのか遅いのかわからないけれども、大人からみても立派にそれができていると感じたから、大人として、敬意を持って接しようとしたのだった。毎年会うたびに顔つきが変わっていくし、変わっていくことを自分では不思議がらないので、こちらがもう何年も変わらない風にいることが、不吉なものの前兆に思えてくる。おれはもう何年も恐ろしいことの前兆に立っている、家森のその感覚はいつも、精神を決定的な安定から遠ざけたし、ときにその影響は神経にまで及ぶ。 いまも、急に頬が冷やっとして、水の気配を感じた。どこかから跳ねてきたのだった。しかしどこからでもない。触っても水滴はつかなくて、乾いている頬だ。水が跳ねてきたのではなかった。冷やっとしたのは、気のせいだったかもしれない。 気のせいだ。 けれどそれで家森はまた、家を出る前に電気や火元を点検していて、シャワーから水滴が垂れていることを見つけた今朝を思い出す。きつく締め直したのだが、結構な力を込めたのだったが、その垂れていくのは止まらなかった。シャワーヘッドに沿って十秒、いや十五秒に一滴流れていって、接合部の切れ目で落下、タイルに、ぽつっと一滴落ちたら十五秒、いや十八、九、二十秒して、 ぽつっ とまた落ちる、いまもたぶん。 家森は煙草を吸って、吐いて、黙って十五秒数えてみた。それはちょうど数えることに退屈をおぼえはじめる時間だった。水滴が、もうさすがに止まったかなというところを狙って落ちる、こちらがちょうど観察から結果を導き出そうという頃合いに期待を裏切る、悪意に満ちて嫌な感じがする、だから放置してきた。 そのことを思い出した。 雲がまだ重なっていた。 家森くん と声がして、家森は声のするほうを向くのだけどそのとき既にもう違和感はある。「家森くん」とおれを呼ぶひとはきょうはいないはずだった。滝尾は「家森」と呼ぶし、七穂も滝尾をまねしてそう呼ぶ。立っているのはスーツの男だった。おぼえてるかな、と男は言った。おぼえてるかな、萱島やけど。 萱島、という人物をすぐに思い出したというわけでなく、ただその名前をおれは一度しか目にしたことがない、これまでの人付き合いからしても、これまでに観た映画の役にしても、その役をしている俳優にしても、萱島というのとは見たことがなく、だからおのずと、記憶を探るでもないかたちで、自然と行き当たった。そこにいたのは萱島だった。 小学校の高学年のとき、何年か同じ公文教室に通っていた。 スーツやん、と家森は言った。言っていた。萱島はそのスーツのポケットから一本煙草を取り出して、せやねん、と呟いてから口に咥えた。家森が手に持っているのと同じ銘柄の、家森よりすこし重い煙草、を咥えたままジャケットを脱いで、周りを見渡してから地べたに置こうとするのを、家森は前のめりになって掴んだ。持つやんか、と言った。言っていた。ありがとうと萱島は言って笑って、笑ったから煙草を噛んで、口のなかで折れた。家森は萱島のジャケットを持ちながら萱島のその動きのいちいちを目で追っていて、追っていることにはその彼の口のなかで煙草が折れたときに気がついて、見すぎかと思ってやめた。 あ と萱島は言って、 ごめんライターそっちやわ 家森が手に持っている萱島のジャケットのポケットを萱島は探り、ライター見つけると手早く煙草に火をつけて、それでようやく家森の手に萱島のジャケットが渡った。 風が吹いて、そうだそもそもジャケットを脱ぐほど暑くもない秋口だった。 寒いなあ と聞こえた。一服する萱島と相対して何でこうなったかを家森は考えた。自分の身体からすっかり洗い落とされてしまったと思っていた関西の訛りが何でこうもすんなりと蘇ってきたのかとも考えた。しかしそのことをいっぺんに考えることできなくて、また様子見の態勢になった。いつの間にか萱島の空いた両手は何かビニールを音を立てて破っていて、マジックに参加させられているみたいだと思う、出てきたのは黒く長いネクタイだった。 これいま買うてん。と萱島はそれを巻きながら言った。 コンビニってネクタイ売ってんねやね 言いながら、ねやね、なんて風に言うんやったかどうか、わからんが喋りのなかを通っていくからええかと家森は昔の彼とのそもそもどういった距離感だったかなどをぼんやり思うが、またいくつかの考えが一度に同じ管を通ろうとして妨げ合うので何もわからない。萱島は、 場所によるよ、さっき駅んとこのも行ったけど、 そこは売ってなかってん、 普通駅んとこのほうがありそうやけどね、そらそう思うやん。 などと話しながらネクタイを結ぶ。まちがえてやり直している。 このへん駅あるんや。 駅あるやんか。え、家森くんはというか、そうか。何でこんなとこおるん、住んでんやっけこのへんに。 いや、キャンプしに行くところ。車で来たから、ほらあれ。ひとのやけど。 こんなとこにキャンプ場はあらへんと思うけど。ネクタイを解く。手こずっている。 いやこのへんはちょっと寄っただけで、行くとこはもっと遠いよ。これから高速乗るし。 へえ、と萱島は言った。おっきい車やんか。 ひとのね。と返すとちょうどそれに返事はなかったので、間が空いた。さっきパーカーのポケットに入れた缶コーヒーの熱が急に気になり始めた。萱島は一度ネクタイを首から外して、最初からやり直しはじめた。そこでようやく彼がネクタイを締めようとしていることを意識した。萱島は何でここにおるん。 萱島 と萱島はなぜか繰り返した。そして、萱島はつや と答えた。 つや? ああいや、家森くん。あー、いや、違うねんけど。林田わかる? 林田はわかる。林田だ。萱島の声できくから林田を思い出した。萱島の声はそのときとはもう全然違うけれどもそうだった。頷くと、おれは林田の通夜に行くとこ、と萱島はこたえた。 それで家森くんネクタイってどう締めんの。 考えの管。これはどうにもやはり一本であって、通っていけるのは一つだった。 家森はネクタイの締め方を一つしか知らなかったけれども、むかし結婚式に行くときに使ったそのやり方を萱島に教えて、お互いにスーツを着る習慣のない社会生活をそれとなく自虐してみもし、それなりにきちんとなったのでジャケットも返し、そうしているあいだにも合間で煙草はお互い吸っている、吸い終わったちょうどそのときまた萱島が林田、と口に出した。 林田のお父さんから昨日かかってきて、連絡先わかるのがおれだけやったみたいで、林田っておれはまあまあながい付き合いに、結果的にはなっていたんやけど、正味どうやろね、 おれがそんなに林田へは、途中から関心がなくなってて、それは何やろう、向こうも割に年々ろくでもない感じに仕上がっていくもんやからっていうのがあって。家森くんは最後にあったんいつやろなあ。 家森は林田の顔を思い出す、公文帰り分かれ道で、萱島とおなじ道をついていく林田のことしかわからない、から、それきりだ。そう答えた。 行くの嫌やねん。いや、嫌じゃないねんけどほらこんな、ネクタイ卸してや、知らん駅降りてや、まだ全然昼やで、休み返上して、って条件で考えていくと何かそこまでほんまに釣り合い取れてんのかと思うなあ。でも向こうは死んでんねん。何も考えてない。だからおれももうそんなん考えんで、何も考えんで行くんが、それがいちばん釣り合うかと、そんな風に考えてんのかな。ようわからんねんけどね。考えてまうね。釣り合いつうか何、お釣りをきれいにしたくて会計でまごついとる感じね、おれ。 萱島は萱島で一本のその管から出てくるものを出してしまうことに専念していて器用だと家森は感心する。出されたものは外気に触れて、ある程度温度を冷ましていくだろうことを彼はわかってやっていて、家森にははじめそれが萱島の感情の吐露であるかのように見えていたが必ずしもそんなことはなく、あくまでその体裁を取るべつの何かであるのを途中からは理解した。だから余計なことを言わずに済んだ。たとえば、その通夜にはおれも出席すべきやろうかと建前だけできいてみたり、どうせ出席はしないのに後ろめたい表情を、たぶん本当にそうなっていたら本心からその表情を浮かべていただろう、そんなことだ。それをせずに済んで良かったと思う。 萱島が去っていきそうになったので家森はとっさに缶コーヒーを手渡した。いいの?ときくので家森は、目についたから何となく買うたけどおれいま眠くもないし、喉も渇いてないし、腹も減ってないねん。 めっちゃ万全やん。 せやねん。 で、本当の去り際になって萱島が、 焼香ってつまむの何回やっけ。二回、三回? ていうか焼香って何やっけ? ときいてくるので、 わからん。 と返し、それで別れた。 車に戻って、それでもしばらくしてからふたりが帰ってきた。さすがに遅い気もしたが、話をきいていると七穂がしつこくマシュマロを探していたからだと滝尾は話した。 だってコンビニにマシュマロがないわけないじゃん。 場所によるよ。 ううん、コンビニなんかどこも一緒。 コンビニに何があって、何がないかを家森はすこしだけ考えた。どこも一緒ということはないし、現にそうだったにも関わらず、それはどこのコンビニも一緒だという彼女の思想をいまはまだ突き崩せないだろうと思った。それはすこしずつわかっていくことだ。 代わりに、たぶん半ば腹いせに買い込まれたたくさんのお菓子を三人でつまんだ。そうしているうちに滝尾の車は高速に乗る、滝尾の気分が高まってきて音楽がかかりだす。滝尾の選曲はべつに世代でもない古いポップ曲が多く、とにかくそれが「正解」なのだと主張する。滝尾は聞きしれるたちで、口ずさむたちなのは七穂だった。後ろからきこえてくる彼女の声が、キャンプ場が近づくに連れのびのびとしていく。 そんなのばっかりきかせていたら友達と趣味が合わなくなると家森は思うのだが、滝尾はただ正解を教えているだけのつもりだからぴんとこない。七穂もちゃんと好きだった。 歌詞がいいんだよねと七穂は言うのだった。
山の中腹にほんのすこし手を咥えて均した程度の土地で、細かい地形はわからないけれどもたぶん連峰の山間だった。風が、意識したときにはいつも吹いていて、それは冷たい。服のわずかな隙間にも抜け目なく差し込んでくる厄介な風だった。 池、湖かとも思える、この辺にしようと滝尾が決めた場所の西にその水辺があった、何とか池と看板が立ててあって、何とかの部分は読めなかった。画数は至って少ないのに見たことがない字で、誰もわからなかった。 木に背や腹はないけれども木の背面、何となくこちらが裏側かというのはあって、吹きつける風を受け止めている側が表だという気がした。葉っぱがなびくからだろうか。ひとの髪のように。 テントを張ってタープを張る。焚き火台を設置したあとは三人でばらけて枝葉を拾った。歩いているとわずかな勾配がわかりづらく、ときどき思わぬ体重のかかりかたをする。乾いているのがあまりなくて、わずかばかりの枝を抱えてもどると誰もまだ帰ってきていなかったからしばらく待った。キャンプ場に着いてからはあっという間に日が暮れてきている。水辺のほうに沈んでいく太陽はみていると、沈んでいきつつあるのが目に見えてわかるような気がした。すこしずつ、すこしずつ下に動いている。このまま完全に沈むところを見たいと思った。けれどそう思って見ると、太陽は動きを止める。 一段と寒くなった。 戻ってきたふたり、特に七穂が大量の枝を集めて帰ってきた。あらかじめ持ってきた焚き木を七穂とふたりで組んだ。滝尾はタープの下でテーブルを組んでいる。 ライター頂戴、と七穂が言った。使えるか? フリント式だった。 ううん、やりたい。 固いから力要るよ。 肩まで使って歯車を擦る、何度か試して点かないのを家森は、左手を使っているからだと思って、利き手を使うといい、とアドバイスをしたのだが、その瞬間に火が点いた。 七穂は笑みを浮かべて手元で点いた火をまっすぐに立てた。利き手だよ、と七穂は言った。 半年前に右腕を折った。それでしばらく左で物を書いたり何なりしていたら、左も右とおなじくらい使えるようになったらしい。もう大丈夫なの、ときくがきくまでもなく何ともなさそうな彼女の右手。便利だよ 彼女はあたりが暗くなるにつれ気分をあげていっているようだった。笑う息が白みがかっていた。夜にさしかかり、焚き火が安定してくると夜になった。三人の吐く息は焚き火の煙にまぎれ、その煙は山間の風でほどかれて、火の光の届いていない、暗いほうに消えていった。タープでカレーをつくって、また焚き火のまわりにもどって食べた。滝尾の足元にはまだ沢山の焚き木が積んであった。それをときどき掴んでくべる。家森はそのたびその数をかぞえた。家森は萱島を思い出していた。萱島を思い出すとき一瞬、彼はもう死んでしまったのだという錯覚が挟まる。死んだのは林田だ。しかし錯覚は起こり、その束の間だけ萱島が死んでしまいひやっとする。焼香を彼は何度手に取ったか、焼香を通夜では何度手に取るべきなのかと滝尾にきくと、宗派によると言った。何回でも同じと思うけど。 同じだろうか。焼べる数が少なければ鎮まっていき。多すぎると熱く燃え盛る。焚き火ならそうだ。適切な領分がある。家森は黙って火をみつめた。それでしばらく誰もが黙って火をみつめた。ある意味でそれは眠っているみたいに、火のゆらぎのなかに意識を委ねてしまい、一方では自我を取られまいと用心する。夢中になってそれをする時間があって、誰もがカメラを向けられた被写体のように動かなくなり、誰の心もわからなかった。 滝尾だけがときどき薪を足した。足すたび煙は濃くなった。ふと月が大きく池の水面に映るのをみつけ、滝尾はココアをつくってくると言ってその場をはなれた。はなれるとき、七穂にひと言何か言い足した。家森はそれを煙越しにみていて、ききとれなかった。七穂がうなずくのだけわかった。 滝尾はタープを越えて、水辺へ向かっていった。そして際を歩きながら水面に映っている月を、力を抜いてながいあいだ眺めた。ときどき水面が揺れて月の形が融ける、そのあたりで魚か何かが跳ねるのだろうと滝尾は考えたが、辺りはしずかだったが、跳ねるような音はまったくきこえてこなかった。魚の姿もなかった。 それこそまるで利き手みたいに 七穂は言った。風向きが変わって煙が顔にかかってきたので、家森は七穂のそばに椅子を動かした。七穂は両手を肘掛けに置いておおきくもたれかかっていた。バランスを崩して、転んでしまいそうな格好だった。転び方によっては火を倒してあぶない。滝尾なら注意するだろうと思った。滝尾のように注意すべきだろうとも思った。しかし家森は七穂の言葉を待つにとどめた。右利きだったのが左も使えるようになって、それから私には、はっきりとわからなくなった。曖昧さが曖昧だった頃から、明確な曖昧さへと移った。なったのは何が、性別が。七穂は、自分の性別がわからないと家森に言った。 家森に話してみるといいと、滝尾がきのう助言したのだった。無理にでなくていいが、家森でなくてもいいが、話せる友達が身近になるべくいるほうがいいというのが、滝尾の考え方だった。七穂からみると、滝尾も家森も大人の友達だった。七穂にはもう友達しかいない。親が死んでいる。滝尾の姉だ。滝尾の姉とその夫が同じとき同じ場所で死んでから、七穂は滝尾と滝尾の妹が交代でみていた。 春と夏は妹が彼女を育て、秋と冬は滝尾が育てる。 それは火守りみたいなものだと、去年のキャンプで滝尾は言っていた。それというのは子育てだ。いまと同じ時期、七穂がテントで先に寝るのを見届けてから、ふたりでビールを開けた。火守りは好きだ。滝尾はいつも自分の足元に薪を積む。この距離感も育て方も、自然ではないというだけで滝尾にはあまりよくないものに思えていて、事情からみて仕方がないのと、それはそれとして火守りのように彼女を世話することが好きだという身勝手な、身勝手と滝尾はそのとき言い表したが、それを身勝手と言うなら全部そうだと家森は思う、その役割について滝尾は、考えるのだけど結論の最後はいつも笑って済ませてしまう。振る舞いは自然でなければ身勝手だというのが滝尾の考えで、自然がむしろ身勝手なのだと思うのが家森だった。 火が身勝手に燃えていて、身勝手にひとがそれを囲う。あたたかいから。焼香は何回するのか、そもそも焼香とは何なのか、萱島、おれはわからん。 そんなんは知らん。 萱島は死んだ。家森はまた一瞬そう錯覚して、滝尾も死んだように思う。七穂をこれからは自分が育てなければならないような覚悟が一瞬、ほんの一瞬だ、呼び起こされて、でも便利なんやろ、と答えた。家森の言葉尻が訛ってるのをみつけて七穂は楽しそうにした。そう、便利。でも両方を同時に動かすみたいな器用なことができるわけじゃないから、そこが難しいところかな。そのとき焚き火のなかで薪が割れて、火の粉が舞った。七穂はそれに驚いて倒れかけたが、自分で立て直して息をついた。びっくりしたと言った。 火を焼べるのが好きで、ただそれは焚き火を燃やし続けることが目的なのではなく、焼べながら、焼べてなおそれがやがて消えるが火だ。そこまで終わってはじめて火だ。火は火であるときまだ途中で、消えて火であることが完了する。滝尾はそう言ったのだったたしか。滝尾は池の前で月に見惚れていたが、急に飽きて、戻ってきた。ココアは、と七穂に言われて、 忘れてた。 タープで湯を沸かし、ココアはその場にあるもので唯一、家森が持ってきたものだった。車もキャンプ道具もカレーをつくるのに使った材料もすべて滝尾が持ってきたが、そのココアだけは家森が持ってきた。手ぶらはしのびないと言って、毎年持ってくるのだった。それはそれで身勝手な話だと滝尾は思う。
朝、一帯に靄がかかった。いつそうなったのかは、ひとの眼では確認できなかっただろう。日の出の前のどこか暗闇でそれはもう漂い始めていて、明るくなるころにはもう広がっていた。最初にそれを見たのは七穂だった。テントから出て靴をはくとき、夜よりも一層冷えている土に触れ、おなじように身体も冷えていた。池までおりていこうかと思ったが、そっちの方向を見ても何も見えなかった。まんべんなく、いまいる山もそのとなりの山にも等しい密度の靄がかかっている、何十歩か先の景色はもう見えないのに、数歩先までの景色まではいつもみえていて、歩いても歩いても常に自分の周囲は見えることが不思議で、七穂はかなりながい間歩いた。池のふちに行き当たると、水に触ってはいないのに足先が何となく染みてくるように冷たくなり、冷たい全身のなかで、より鋭利にそこだけが研ぎ澄まされていくみたいで、それはきっとどんなものも刺し貫くだろうけれども側面から叩かれればたちまち壊れてしまう氷のナイフ、氷のナイフというイメージが七穂のなかで膨らんで、それは何と思う。頭が冴えていて空っぽだった。魚の跳ねる音だけきこえてきた。 七穂は戻って焚き火を燃やそうとした。家森の座っていた椅子に煙草とライターが放られていて、滝尾の椅子のそばにはまだ薪が余っているのだが、地面に落ちている枝はどれも湿っていて、最初の火がつかなかった。昨日ふたりが焚き火を起こすのを見ていて覚えたのに、七穂は最初の火をつけられない、その仕方を知らなかった。ここにあっていま燃えるのは何かというその観点でだけ考えると、彼女は家森の煙草を手に取って火を点けた。煙草って吸ったら温かいんだろうか 手を寄せてみるくらいではあまり熱を感じられないので、口元に寄せた。ただそこから家森はいつもどうやって吸っていたかを、七穂はそれもみていたはずなのに知らなかった。私は家森が煙草を吸うことのいままで何をみていたのだろう、と思った。私は見ているだけ、覚えているだけで、知らない、気づけばふと煙草を指ではさんでいる片方と、火をつけたもう片方であって、自分がそうとも思わず利き手を使っているときの手はどっち、考え出すと靄が身体の空いているところからなかへなかへと充満していって、吐く息の白いのはそれなのだという、イメージ。私は自分のものすごい速さで回転する思考とゆるやかに時間が過ぎるこの場の両極をどちらも感じられていて、いまに大変な存在の揺るがしに遭うだろうという予感さえ、そしてその覚悟さえどこかで済ませていて、何か嫌だなあ、と七穂は思い始めていたが、それでも煙草の先端の火をじっと見つめていたらいつの間にかすべて収まっていた。 しかしどこへ収まっていくのだろうと思った。煙が燻るごと手先で灰が溜まっていく。 がさごそと音が背後でして、家森が起きてきた。七穂の手に挟まった煙草を見て家森は、何してるの、と言った。靄がすごいな、とも言った。 吸い方わかんなくて、無駄にしちゃった。 家森は七穂の手から丁寧にライターと煙草を抜き取り、煙草は灰を落として捨てた。そして新しい煙草に火を点けた。吸い方教えてよと七穂が言うが、止しなよ、とだけ言って自分で吸った。七穂はそれをよく眺めたが、やっぱり口のなかでどうやって吸っているのかよくわからなかった。それとも単に吸っているだけなのか、息を吸うのと何も変わらずのものとして。うめえ と聞こえた。七穂は、あったかいかと聞いた。 あったかいとかはないよ、と家森は答えた。ただただうまいんだよ。 いいから焚き火つけてよ。 いいけど、どうやってつけるの。 わかんないの? うん。 大人なのに。 滝尾を起こせばいいじゃん。滝尾を起こしたら火が起こる。 滝尾をふたりが起こし、滝尾が車のなかにあった着火剤を使って火を起こした。 火の周りでパンを食べているうちに靄が晴れ、またすこし喋った。 しばらくしたら滝尾が、 帰るか と言って火を消し、余った薪を車に戻しはじめ、あとのふたりはテントの片付けに移る。昨日寝るときはそんなこと思わなかったのに、家森はテントのなかで広げた寝袋を、ピラミッドのなかの棺桶みたいだと、思ったわけでなくてただそう思うこともできるな、というくらいの感覚でたしかめた。すべて車に詰め終えると、滝尾は車を出した。昨夜深く眠ったのとはべつの話だというように、家森も七穂も車のなかでよく寝た。滝尾は暇になって自分のプレイリストを流しはじめ、やはり口ずさんだりはせずじっくりときいて、それがとにかく滝尾にとっては幸せだった。