いつか秋の夜、男が店の裏手から出ていき、駐輪場をへだてたところにあるごみ置き場まで台車を押していった。台車には、空になったダンボールのかたまりがひとつと、客が飲み食いして出た沢山のもえるごみ、もえないごみ、ペットボトルがおざなりに分別された袋が乗っている。男は風のふいてくる南西の方角にわけなく視線をおくり、そのあと空に浮かんである半月に、それはみえるそのものをみるのでなく、風なら風の向こう、月なら月の向こう側にある何か、何かあるならばそれをみつけるつもりでいた。 どこかに閂があるはずだ、と男は考えている。男はこの日一日中、閉塞的な気分を抱えていた。しかしそれは、「とても狭い場所に閉じ込められている」というような鬱屈とした感覚とはちがっていた。どこかに閂があるという考えが先に立ち、それをただみつけて引き抜いておきたい。閂を抜いて外へ出ていきたい、どこかへいきたい、みたいな観念的な逃走心があるわけではなくて、ただそれがあるならば開けておきたい。そう考えていた。それで探している。それが実際のところは存在しないことも、男は承知している。ただ単にそういう気分なのだということをただ単に理解して、探すという営みが引き起こす時間経過や肉の緊張で、その気分をあそばせているのだった。男の歩みははやかった。 常夜灯のしたに立ってごみ庫にすべてのごみを投げ入れた後、彼はもと来た道にはもどっていかない。駐輪場を避けるかたちで迂回すると、そこが何なのかは知らないが「資料室棟」とだけ入口に札がかけられているのだけは知っている、ちいさな建物がある。周辺の景色は闇に溶けてみえづらかったが、男はこの通りの昼のすがたを知っているから自由に思い浮かべることができる。どんな並木が生えていて、道のわずかな起伏や敷石が外れている場所も、この夜にあってみえている。そこを通っていっても店にはもどることができた。あえてそうするのはいつも裏口ちかくの軒下に、やけにひとなれした真っ白い猫がいるからだった。 車通りのある道を男は逸れていた、人感で光りはじめる街灯に照らされて、その光の充分に届いているそのもう一歩先に猫は、いつの日もその距離感でいた。うす闇の中で横になって、こちらに顔だけ向けているのがわかる。 猫のよこに人影があることにもそのとき気がついた。人影とうす闇の区別は明確にはしづらく、どこからどこまで、ということはわからないが、こっちをみるように動いていることはわかった。あちらからはこちらがよくみえている状況なのだということに、遅れて気がついた。男が足踏みしていたら、声がかかった。「織汰」と、男の名前をその人影が言った。 ちかづくとそれは知っている男だった。宏という友達だった。宏はダウンを着て楽しそうな表情を男に向けていたけれど男にだけ向けられたものではない、宏はおなじ表情でそれまでずっと猫を撫でていた。猫を撫でているうちに自然とそうなった表情を、男のほうにも持ち込んだということだ。ひさしぶりだな、と宏が言った。それから宏は男の返事を待たずに、「何年ぶりだろう」「相変わらずそうだな」「まあ生きててよかったよ」ひとまとめにそう言って、そこでようやく男にリアクションを求めるように黙った。 宏がこの市内のどこかの交番だか警察署に勤めているというのは知っていたが、こうして会うのは大学を卒業して以来だった。宏はおなじ歳のおなじ学部生で、しかし男にとっては気を抜くと彼を年下だと思ってしまうような心理がはたらく、そういう相手は後にも先にも宏しかいないのだが、そういう意味で妙に印象深い男だった。 印象深いとは思うわりに、いまこうして出会うまでまったく彼のことなど思い出したことがないのだが、しかしやはり印象深いという思いがあった。 男がわけをきいて宏は、「仕事中なんだ」とこたえた。と言いながらさぼっているのだと合点し、「遅くまで大変だな」とだけ感想を言うと、宏は彼の内心を量り、 「こいつが構ってほしそうにみてくるから、ちょっと相手してただけだよ」と言った。 「わかるよ」 猫はこうしているいまもじっとふたりをみつめていた。ふたりともを、おなじようにみつめている。そういう視線だった。男は空になった台車を畳んでわきに置き、猫をはさんで男のとなりに腰かけ、ひと息ついた。 「この猫は」宏が訊ねた。「いつもいるのか」 「冬になるといなくなるんだよ」と男はこたえた。「こいつがいなくなったら、その日から冬なんだと感じる」 「冬はどこにいるんだ」 「こいつの本当のねぐらは誰も知らないよ」 「ふうん」宏は指先で猫の腹の毛をふれた。「雪みたいに白い猫だな」 男は宏にさとられないように彼の顔をみた、その顔がうまくみえないので、ポケットに手を入れて正面を向いた。吐く息がみえた。 宏はその男の視線の移り変わりに気づいていた。 「そういえばおれ、」と男が言った。「お前に返すものあるよな?」 「織汰に?」笑ってこたえる。猫が宏の指を両手でつかんで甘く噛んだ。「なんだっけ」 「なんだっけ、そう。なんだっけ、なんだよな。でも何か借りた気がするんだよ」 「あのころ貸せるようなもん、金か煙草くらいのもんだけど」 「そういうのじゃないと思うんだけど」 「思い出せよ。そんで返してくれよ」 と言い合っているあいだに宏は、そもそもこの男とのあいだに何かそういう思い出めいたことがあったのかどうか、いまいち見当をつけられないでいた。おれとこいつはそんなに仲が良かっただろうか。織汰と過ごした時間のイメージはつく。さっき織汰がここへ来たのをみつけたそのとき、街灯に照らされた姿で、顔をみるよりも一瞬はやく「織汰だ」と感じた。その感覚に似て思い出すときに、思い出せるはずの具体的な場面よりも一瞬はやくおとずれる記憶それ自体の質量みたいなものが、宏の頭で具体性が描出されるレイヤーのうわ手にかぶさって肝心のところを隠した。 猫は腹をうえに向けて宏の指をしがんでいるが、指そのものをみていない。目を閉じて、いまや陶酔状態に陥っている。織汰が自然にほほえむのがみていなくてもわかった。目でみなくても、このあたり一帯がみえているような気がした。 会話が途切れてしばらくすると、座っている地面の冷たさが堪えてきた。織汰もおなじように思った。立ち上がって、どこへ行くでもなく、両手を広げたくらいの空間を、歩くというよりは単に足を動かしてやり過ごした。熱のあるものが自分の場から離れたことを知覚した猫が顔をあげて目をあけた。そして甘い声で鳴いた。 「仕事にもどらなくていいのか?」と宏がきいた。 「うん、まあ」と織汰は手で口もとを隠した。「やっぱり、何を借りてたんだろうっていうのが気になってる」 「お互い思い出せないことなんだから、それはもういいんじゃない?」 「おれもそう思うんだけど」織汰は隠した口元から息を吐く。「なんか……」 「なんだよ」 織汰はそこで考え込んで黙った。猫が相手されるのをあきらめて、自分で身をあたためるように背を丸めてまた目を閉じた。そうなると本当にこの暗さでは、そこだけ雪が積もったようにもみえる。 裏口の石柱で設えられた門の左右それぞれのわきには木が植わっていて、気がつくと織汰はその右側のそばまで寄っていた。宏からはすこし遠ざかっていくかたちになる。ふたたび街灯に近くなって織汰の姿があらためてみえる。彼は木のちょうど目線の先に垂れている葉っぱに顔をちかづけていた。 「赤いのがついてる」と彼は言った。「実かな。蕾かな」覗き込んで、「よくみえないな」 宏は近づいて立ち上がって織汰のところまで行こうとした。しかし門まで来たところで立ち止まった。木をながめている織汰の横顔が、織汰ではない別人のように感じられた。そして宏が立ち止まったのを感じて織汰が彼の方に顔を向けると、宏のなかに降って湧いたその感覚はより濃くなった。 「みてよこれ」と織汰が言うが、宏はそれ以上ちかづけなかった。織汰が怪訝そうにその様子をみていると、やがて冷たいものが宏の頬に当たった。肌に孔が開いて風が通ったようなすずしさに気を取られて、上をみると、雪が降っていた。わずかなその最初の一陣につづいてすぐに、そこらじゅう一帯に雪が降った。そうすると、わずかなたよりに過ぎなかった街灯の光が雪という媒介を使って反射しはじめ、全体がすこし明るくなった。車が一台、表の道を通っていくのが、ここからはみえないが音でわかった。 音の方向と収束していく流れが、このとき宏にはわかった。夜の冷たい空気に沿って地表を滑走路のように使って飛んでいき、同時にまたそれらが降る雪に吸い込まれていく線が、それは実際には無数の方向を持つものだが、一本の線のように宏にはみえ、その終の部分を宏はみた。 「どうした?」と織汰は言った。宏ははっとしてまた織汰に目線をもどした。するとまた最初の通り、織汰だと思える人物がそこにいた。 「猫みたいだったぞ」と笑って織汰は言った。宏は何と言うか迷いながら、その織汰の笑いにみちびかれるかたちに話を沿わせて、「うるせえよ」とおなじ程度に笑った。 「あいつがいなくなったら冬だって、さっき言ったじゃねえか」 「あいつって?」 「だから猫だよ」と宏は言った。「あの猫がここからいなくなったら冬なんだろ? でも雪降りだしたじゃない。そしたらもう冬じゃん。でも猫いるじゃん、おかしいよな?」 織汰は急につまらなそうになって、また木の葉元をみだした。 「じゃあまさにいま冬になったって、それだけのことだろ」 実か蕾かわからないその赤い何かを指で揉んで、「やっぱわかんねえな」とつぶやいた。そして、 「なあ宏、」と言った。「お前さっき仕事中って言ってたけど、こんな夜中に何をしてるわけ?」 雪が宏の肩に降り積もっていくのを織汰は感じていた。そこにだけやたらと雪が積もっていくような感じがした。織汰のうえには雪が降っていなかった。すべて木が受け止めていた。彼は、「あんまり言えないよ」と答えた。「仕事中なのはお互いさまだろ」とも言った。はじめにはなかった警官らしさのようなものが、雪の積もる肩つきに宿っていき、それにつれてはじめにいた宏の前にその警官が立ちふさがって、奥に隠れていくように感じられた。そこには閂があった。開けておくべき閂が、確かに彼と友達だったといまつよく感じる、奥の宏の像の、その肩にあった。 宏がふと気になって後ろを振り返ると、猫がいなくなっていた。猫の足音くらいのものは雪がすべて取り込んでしまうのだろうと、そのときすぐに思った。その取り込まれる足音とおなじ軽さで猫そのものも、闇のなかに取り込まれていった。彼はそういう情景をイメージした。イメージさせられた、と言うべき力の向きが宏の頭のなかへ忍び込んで、そのまま潜んでしまった。音は雪に、雪のような猫は闇に。そして闇は、より暗い闇に取り込まれる。この街灯のしたから段々と明度を落としてこの夜のどこかに、そういう闇を固めたもっとも暗い塊が、実際にみえる以上の暗闇が、どこかに転がっている。そう思って宏はここからみえる一番遠くをみた。そこに降っているはずの雪もみえない、そしてなおみえていない暗さの、 「お前に何を借りたか、おれ思い出したよ」と宏の背後で織汰の声がした。 織汰は木の葉元のさらに深くの繁ったところに、たこ糸で結わえられた小袋をちぎり、ポケットに手を入れた。「マフラーを借りたんだ。おれが凍えて死にそうみたいなこと言ったら、お前が自分のマフラーをおれにかけた。この雪で思い出した」 織汰は門とは反対側、宏から直線的に遠ざかるかたちで音を立てずに去っていった。宏はその声をたしかに聞いていたが、織汰がいなくなったことには後から気づいた。頭で考えていることと周囲で起こっていることが同期していないような焦りから自分を取り戻すことに彼は人知れず執心して、それが終わるときには周りにだれもいなくなっていた。雪も小ぶりになってきて、表でまた車が一台通った。さっき通った車は「こっち」から「あっち」に向かって走っていったが、いまのは「あっち」から「こっち」だったと、まったくわけもなくそう思って、はっきりと意識のうえで文章に落とし込んでまでそのことを理解した。いなくなった男と猫が、本当にいなくなったことを確認した。そのようにいちいち整理をつけていかないと、また内と外で同期がずれそうな不安感が彼のなかに充満していた。夜はまだ深く、彼はまだここでしばらく見張りをつづけなければならない。 彼がまた軒下にもどろうとしたとき、視界の外でがしゃがしゃと音がした。みると資料棟の角をちょうど曲がって消えていく人影のようなものがみえた。 「誰かいるのか?」 返事はなかった。その場にあった、織汰が持ってきて畳んで立てかけたはずの台車がなくなっていて、その何も積んでいない台車を転がすときに特有の、乾いたカラカラという音が、建物の裏で響いていた。宏はそこへ走っていったが、誰もいなかった。音は、その軽い乾いた音が想像させるよりもずっと速く遠ざかっていき、やがて消えていった。 それが誰なのかはわからなかった。