baby,don’t worry about it. -
ひろい公園で、群れるでもなく、ところどころハトがほっついている。そのなかに一羽だけ、何か気になる動きをしているのがいて、それをつい目で追いかける。蓮見は自分が運営している配信画面のチャット欄に現れたその文字列を、たとえばそれとおなじように見つけて、手を止めた。下から上に、他のチャットにまぎれて、ながれて、見えなくなると、彼は2つあるモニタの、もともと見ていたほうに姿勢を向き直して、制作にもどった。 配信では、蓮見がこれまでに作った曲を24時間ながしつづけている。夕方のいまは121人がそこに接続していた。いつも深夜の2時頃のピークがきて800人くらい、その後すこしずつ下がって朝の10時頃がいちばん少なく、50人くらいに落ち着く。だいたいそんな感じだった。けれどそのひとのほとんどは画面をみない、ながれている音楽をきいている、 きいているのでもないだろうと蓮見は思うでもなく思う。その手の音楽だ。勉強をしたり、絵や文章を書いたり、本を読んだり、煙草に集中したり、眠ったり、それをするための音楽だった。 それをするのに、自分ではない、何らかの存在をほのめかすものが必要なことがある。 だれかいてほしくもあり、だれもいてほしくない。おれはそういうときにきく。 その手の音楽を作っているという自負が蓮見にはある。 だからそういう配信で、チャット欄がにぎわうことはない。ごく簡単な挨拶と、スパムかどうかもわからない知らない言語の文章、それも会話にはならない。それから意味のない記号、そういうのは勉強への集中の切れた受験生が打つのか、知らないが、そして祈りというか、願いというか、ときどきこういう、いま時を同じくして接続している不特定に向けてか、実際にいま彼のそばにいる相手にか、あるいは蓮見もそこにふくむ全体に向けてか、書くひともいる。「baby,don’t worry about it.」 すごくめずらしいことでもないが、あまりたくさんはない。
曲ができあがった日には、蓮見はそれを各種ストリーミングサービスに配信する、そうすると配信にもそれが反映されて、プレイリストのなかの一曲としてながれるようになる。それをするとき彼は頭のなかに「そそぐ」という言葉を思い浮かべた。友達や恋人、だれでもいいがだれかと飲み屋で一緒にいて、相手の手元にある御猪口が空いているのに気がつき、徳利を持ってそこへそそぐ、たとえばそのときのそそぐ のようなリリース。 しかしそそがれるような感覚もあった。そそぐ/そそがれる それは表裏を共にした行為だったかのように、いまその感覚を思い出すにつけ、思う。片方を思い浮かべるときにかならずもう片方の感覚も引っ張っておとずれる、記憶を重ねて言葉は芯を太くしている、そそいでいるときはそそがれているように、そそがれているときにはそそいでいるようにうれしい、楽しい。 酒を飲みたいと蓮見は思った。 自分のそのようなイメージを伴って続く曲作りに対して蓮見は、しかし実際には自分でも意外なほど淡白に取り組んでいた。無心で、無表情で。制作のさなかには、そんな思いはどこにもなかった。制作を終えて、虚ろな気分になって、寝てもいられず座ってもいられず、何日か経ってから、おれは一体何をしているのか おれは一体何を と問いかけたあとで、そのイメージがわずかにわいてくる。それですこしずつ回復をして、しばらくするとまた曲をつくりはじめた。 その回復の時間が次第にながくなっていることを、蓮見は気がつくことが’できないでいる。
ある朝蓮見は、胸に手を当てて耳を澄ませても、心臓の鼓動が感じられないことに気がついた。質の悪い睡眠がつづいている何日間かを蓮見は、 いまいち原因をつかみかねたまま毎日の事をするのは仕方ないけど、その事のほかがことごとく退けられるのが困んねんな、 と感じていた。回る大縄に飛び込む、飛び込みうるその大縄の、拍。拍が感じられなければそこへは飛び込んでいけないし、たまたま入れたとしても跳びつづけられないだろう、大縄を跳ぶときひとは縄をみない、常に拍をきく。そういう意味で大縄のように回っている生活、そういうイメージの通りに生活がなっているなら、拍をいつでも捉えていることが自由でいることの条件だろう、その身体はとても軽いやろう。 それで自分の持っている拍をたしかめてみようと胸に置いた手からしかし何も伝わってこない。これはちょっと感覚がおかしくなってしもうている、おれはいまあんまりよくない状態でおる、というのがわかって、一度寝た。 20分経って勝手に起きて、また確かめてみたが、変わりはなかった。ただしそれ以外に変わったこともなかった。手を当てて耳を澄ませれば、心臓が動いていないように思うけれど、手を当てず耳を澄ませなければ、いつも通りだった。 時間について、そういうことを言ったひとがいた、と彼は思いよぎった。
それについてきかれたとき、私はそれを知らない。きかれなければ、私はそれを知っている。
みたいな感じだった。こんなんやっけ。あまり正確には思い出せなかった。そもそもそれはどこかで誰かが言ったのをきいたことがあった気がする、というもので、誰がいったのかもしらん、誰からきいたかの見当はついた。そういうことを言うのは蓮見の知り合いのなかでは、その男だけだった。たしかあのときは病室だった。彼は入院していた。おれが見舞いを持っていったのを受け取ってあいつはベッドで横になったまま、 賞味期限あしたやん と言った。入院患者に自由なタイミングでなくすぐに食べることを急かすようなものを持っていくことにそんなことにも気づかずただおいしそうだからというので持っていたおれが、おれってほんま、つくづくそういう奴やねんよな、と反省して、 帰るとき持って帰るわ 言うと、 お前そんな 墓にお供えしてんのとちゃうねんから みたいなことを言っていたその口で、彼は時間の話をした。 蓮見はしばらく彼とのやりとりを思い出した。
時間のながれのない場所で意識がまわっているのがわかった。空転、その回転は時間を表す歯車に噛んでいないのでまわるだけでつぎへ繋がることがない。つぎつぎ思い浮かぶ物事のどれも進行することがなく、堆積もしない。ただそれを思うことの浪費が行われている。 何かそんなような感じや と思うこれもそれだった。生物はいつも何かしらの活動をするものだから、このように主のようであるおれとかが活動をしないときは、意識が勝手に、浪費のための生成をするんだろう。しばらく何もできないで横になっていた。それから、起きて、コーヒーを淹れて、パンを焼き、それらができあがるまでに着替えをして、窓を開け、朝食を摂り、顔を洗、家を出る。これからそれをしようと思うその一連のイメージが頭のなかで何度も組み立てられては解体される。一度起きたらかならず外へ出るのだが、そこへいくと連想の溝のようなとところにずれこんで、気がつくとまた起きて、コーヒーを淹れて、パンを焼いている。何度も頭は、おれのは、勝手にしている。 それが意識の空転だ。 蓮見がそれを本当にしたのは午後3時だった。
たとえば信号機。信号機が、赤から青に変わるでしょう、歩いてて信号 どんなに短くても1回は通る、そのときに赤から青に変わる、そのタイミングというのがだいたいこちらでは分かっている、だいたいみんなわかるでしょう、それで青に実際になる頃にはすでに横断歩道に踏み出している、という状況があるでしょう。つまり青になってからする動きを青になる前からする、そして後置いで信号は青になる、そんな順序を仕組むやり方があるけれども、青に実際になるのがその歩を進めてから存外に、 遅いな、 と思ったときに何かぐらつく心がある。もしかしてこの信号は青にまだならないのかという不安に駆られるそのときにしかし足はもう動き出してしまっているからとにかくこの一歩に関しては取り消せない、いまに青になるやろう て謎に歩調をゆるめて2歩目を先延ばししながらわずかなりにここで帳尻を合わそうという、ここでいう帳尻とは何 ていうのはあるがしかしとにかくそこでは帳尻を、合わす素振りをする。 て してたら、青になる。おれはほっとして歩く。 くだらない話だけれどそのときおれは自分がとても自分の世界だけを生きている、そしてそのことへの覚りがないことへの証左をつきつけられた気になる。信号が青になるときの、イメージと実際のわずかなこんなずれで、おれの世界は崩壊する。 決して青になることを確信しているわけではない、そんな些細なことに対してものんきな確信を持つことができないことにおれは気になっている。のんきな確信、それは何。 だいたい横断歩道をそんな早め早めに渡って、急いでいるというのでもなし何になるというん、ただ無駄を省こうとするその無駄は、省こうとするから有っている。省かなければはじめから無いものだ。おれは一体何をしているんやろう、と思う。 思うねんな。蓮見は彼にそう話した。
河原につくと蓮見は腰掛けて、持ってきたマイクセットを組み立て始めた。SHUREのMV88はこのまえ死んだ作曲家が、その何年か前にそれを使って作曲しているのを動画でみて、真似て購入した。クッション地の持ち運びケースは、巻物をひらけるみたいに、留めてあったマジックテープを剥がすと中身が取り出せた。 マイク本体は手のひらに握ることができるほどのおおきさで、そこにまずU字の固定具があるから、それを嵌める。その底部がネジになっていて、つぎのパーツがそこにくっつく。スマートフォンを装着するためのクランプだ。三脚を取り付けて、マイクに風防を被せ、コードをスマートフォンにつないでアプリを起こしたら、録音待機状態になった。 蓮見はしばらくのあいだ、アプリ上でいまマイクが認識している音の入力が波形として画面に表示されているのを眺めた。微弱にずっと音を作っているのは、これは川の水流か。橋にほど近い場所だったから、うえを車が通るたびに波形は大きくなった。 録音ボタンを押すと、立ち上がって、あるき出した。三脚の足をひとまとめに持てば、ハンディになる。 大きな川だから、ちゃんとした道がある。歩き終えるまでに、ジョギングなどをしているひとと何人もすれちがった。それから警戒心のうすい鳥が前にたたずんで、捕まえられそうなところまで近づいてようやく飛び去った。鳥は川の、わずかに中洲になっているまわりに着地した。おなじ種類の鳥がそこに群れている、けれど身を寄せ合っているというのでもない、何かやり取りをしているようにはみえず各々で勝手に過ごしているのだけれど、やはり明確にそこに集まってはいた。 水際は生えている草の背が高く、ものによっては腰まで隠れる。蓮見はなるべく通れそうな道筋を見出しながら、川べりに寄った。視座も低くなって、中洲の鳥がすこしだけよくみえる。草かげからすずめが飛び出してきて、足元まで跳ねてきた。動かないように努めてその雀を見下ろした。雀は水浴びをしていたらしい。すぐそこに深くぬかるんで水溜りになっているところがあった。濡れていたが、全身を2度、震わせると、それだけでもうすっかり乾いた。驚かすと悪いから、おれは微動だにしないでいたが、雀はつぎの瞬間明らかにおれに驚き、対岸めがけて飛んでいった。 中洲の白い鳥が啼いた。後になって調べると、あれはユリカモメという。 ああいう集団でいる鳥は、ある時間になるとすべてが一斉に飛んでいってどこかにいってしまう。その瞬間の光景を何度かみた記憶があった。夕方頃とか、たぶんそのあたりで、何の前触れもなく、もしかすると、飛ぶと決めるはじめの1羽がいるのかもしれないが、それもおれには判ったことがない。帰る場所は、山やろうか。東にあるのがたぶんいちばんちかい山、それでも距離は結構あるようにみえるけど。もしかしたらもっととおい、山の向こうかもしれん。そんなところまで、本当に日々その身体を運ぶのか。 きょうもそのつもりなのか。
部屋のなかで蓮見は、録ってきた音をながしはじめると同時に、ドラムマシンを手前に置いて、ごくシンプルにバスドラムが4つ打ちになるようなループを作った。インターフェース上でそのふたつの音源が混ざり、彼のヘッドフォンから流れてくる。長らかなひとつの再生とお、ミニマルなひとつの反復。そのような方法を採ったことはこれまでに一度もなかったけれど、ごく自然に思いついた。そしてやってみてやはり、これは自然的で、まちがっていないことを確信した。河原の録音をききながら、4つ打ちのBPMをすこしずつ下げていく、下げすぎたと思ってすこし戻し、しかしやはり全体的には下がっていった。まちがいなくここだ、と思うようなポイントをはっきりとみつけることはできなかったが、そうやって探っていくうちに、収束していった。 環境音に拍があって、そことの噛み合いをつけていたのだろうかいま、環境音に拍はある? ときかれたらおれは、あると答える。あるから合わせられるんやんか。四拍子でリピートしているこちらのドラムの音がそう設計されて拍をそなえているのと同じ程度、拍がある。 ないと答える。ないといわれれば、それはドラムにもない。機械制御で正確な反復を設定されていようが、いまいが、拍などはない。川がずっと上から下にながれていくのと同じ程度には。拍はなくて、だからこそ2つは合っていく。合うのではなくて、ただ混ざる。 けれど合う場面がある。 それは説明をおれはおれ自身にもできないけれども、音楽だから話は簡単だ、現に、きくひとにはわかる。というよりも音楽自体がそれをわかっているから、それでよかった。合っていないときにすぐわかる。 すぐ近くで羽ばたいた。その音がした。あの雀が飛んだところだった。 川に何か落ちる音がした。それははじめてきく音だった。あのとき、川に石が落ちた。すずめが蹴った、のだろうか。すずめが蹴って川に落とした石のおおきさが蓮見にはわかった。色もわかった。重さ、形状、それが全部きこえて、おどろいた。
録音を一通りききおえて、ビートも一度止める。もう一度はじめから、さっきは途中まできてようやく決まったビートをはじめから流した状態で、きいてみる。うん、 できた。 この曲はもうできている。これから作るのだが、これでとりあえず完成している。まずはその状態が必要だった。そのうえで、さらによくしていく。よりよく、推敲を重ねる。 バスドラムがハイハットと噛み合うように打つ。あまり多くはみえないが、しっかり一定の音を出し続けるように、いくつかの音塊にわける感覚で配置する。つまみで音色を変えることもできたが、蓮見はドラムに関してはほとんどそれをしない。ドラムの音は決めている。 ドラムだけは蓮見は、あるひとりのプレイヤーが、自前のドラムでいつも演奏していることをイメージした。彼はそのプレイヤーを鮮明にみることができた。音もなく部屋に入ってきて、ひと言も発さずに慎重な手つきでハイハットシンバルを撫でるようにふれ、それから何か考え事をしているようでもある集中した目つきのままそこへ腰掛ける、しばらくじっとしてから、いまその瞬間にすべてが決まったことをさとったように迷いなくプレイを始めるそのひとを。 そのひとをみようと思えばみることはできない。その音をだけきいているとき、そのひとは鮮明な姿形を取って、蓮見の部屋で、ドラムを叩く。 そのひとに導かれるように曲はつくられた。
拍を見出し、拍をなくす。環境音と機械音を溶かす。生成と制作の融解点。おれのそれはすべてこれだ。マスタリングまで済ませると蓮見はそのままインターネットに楽曲をリリースした。曲名はいつも、ファイルを書き出す段階になってようやく考え始める。とはいえ、名付けるためのメモはあった。単語とかフレーズを溜めておくメモをみて、合うものを探した。合うもの、というがこんなのは適当だ。そのとき目についた言葉は、目につくということは、合っている。合うとはそれくらいのことであって、それくらいのことが運命だ。 「運命」 と蓮見はつぶやいた、それから心臓に手を置いた。何もきこえない。血のめぐっている感じもない。鼓動がない。おれは死んだんやろうか。メモにある言葉が目につく、それと同時に思い出す、組み合わせて、ファイル名にはこう書いた。 meet up with baby 赤ん坊と待ちあわせ その文字列を作ってから蓮見は、保存のための変換を待ちながら蓮見は、アップロードをしながら蓮見は、胸に手を当てて、その言葉に与えられている意味を考えた。それと平行して、やっぱり自分は死んだということを意識するようになっていった。